国際卓越研究大学
東北大学 大学院経済学研究科・経済学部 川名 洋教授(西欧経済史)

Prof. Yoh Kawana(Ph.D. University of Leicester)

イギリス経済史
The Economic History of England


 
   

はじめに

 ユーラシア大陸の西側に興った高度な商業経済はイギリスを起点にまずアメリカ大陸へと広がり、大西洋を挟んで活発化する人の往来と貿易を促進しながら、北米に誕生する新興国の経済発展をも後押ししていきます。こうして成立した欧米経済圏は、工業製品輸出と国際金融を軸に、グローバル経済という大舞台を演出することになるのです。

 演じるアクター個人の能力と独創性がどこよりも大事にされる筋書きがこの壮大な歴史の見所。その結果生み出される制度とアイディアは、やがて言葉を通して世界の学問、ビジネス、政治の分野に影響を及ぼし、古い発想の転換を促していきます。

 イギリスがスコットランドやウェールズなど複数の地域から成る連合王国であることは広く知られていますが、経済史の講義では、主にイングランドを中心に解説を進めます。北西部のマンチェスターや中部のバーミンガムは、産業革命を待たずに工業都市として急成長し始めます。首都ロンドンは、国の経済政策が決定されるイギリス政治の中心地でした。また、イングランドは、中世以来、市場経済が最も進展した地域でもあったのです(Campbell: 2009)

公私混在の経済社会

 制度に対する評価は、その経済論理を問うだけでは終わりません。なぜなら、制度は管理を伴うゆえに、市場の働きに不可欠な個人の選択を妨げる場合があるからです。この諸刃の剣とも言うべき制度を長く機能させるには、個人の都合が何よりも重要であるという価値観が社会に浸透していなければなりません。イギリスでは、近世前半期(16〜17世紀)においてすでに、そのような社会が自治都市を中心に成立していたことがわかってきました。「公私混在の経済社会」です。

  立法の動きが活発になり、いかに市場が規制されようとも、個人の力は決して衰えない。今やそうした事情は、イノベーションに依存する経済先進国において必須の社会原理となっています。イギリス経済は、名誉革命よりも前の時代から、そうした社会原理を基礎に動いていたことがわかってきました(川名: 2024)2024.05.20
【参照】イギリス都市史

中世は最初の都市化の時代

 13世紀の終盤まで勢いよく続く人口増加と14世紀半ばの疫病蔓延による人口減。変わりゆく経済状況下でも都市に住む人々は、自治権を獲得し、カンパニーを組織し、内外に取引のネットワークを広げていきました。その結果、イギリスでは市場向け農業生産が伸び、人口移動も活発になっていきます。民富の蓄積と社会的分業が進み、住民自ら国政選挙を行う制度も定着し始めていました。この時すでに経済とプロト・デモクラシーはまさに隣り合わせの関係にあった事情が見えてくるのです。

  その中心となるのがこの頃各地に現れ、今も変わることなく地域経済の要として存続する自治都市でした。アダム・スミスが『国富論』を著すのは18世紀。それまでに財政革命消費革命を起こすこの国の前提には、これら自治都市に市場と救貧のカルチャーを定着させる中世以来の長い歴史があったのです。
2020.07.15

案外似ている企業社会と農村社会

 遠い昔の経済史を解き明かすのは簡単なことではありません。ところが、中世イギリスの農業について調べていくとおもしろいことに気づきます。思いのほか現代企業社会と似ているところがあるからです。

 ビジネスのルールが変わるときには、人材や資源の奪い合い、市場の変化やイノベーションの効果など、その背後にいくつもの要因があるものです。雇う側、雇われる側はその都度、難しい選択に迫られます。

 中世農村の外部環境も、人口増加や人口減、都市建設、公開市場の開設などにより変わっていきます。村を治める領主も、そこで働く農民らも、その都度、難しい選択に迫られました。土地保有上の制約はあったものの経済状況に応じて農地を売買し、よりよい経済条件を求めて移住する農民も少なくなかったことがわかっています(Campbell: 2009)。農民の数が減れば領主の暮らしも打撃を受けます。場合によっては倒産ならぬ廃村に追い込まれる可能性もあったのです(Hoskins: 1946)

 もちろん歴史研究において安易な比較は禁物。しかし、今と昔の状況があまりにもよく似ているので、古い話と切り捨てるのは少々もったいない気がするのです。2022.11.01
【参照】封建制エンクロージャー土地保有

羊毛生産から毛織物工業へ

 大航海時代以前にイギリスの産業構造は大きく変わり始めます。同国は羊毛輸出国から付加価値の高い毛織物の輸出国へと変貌を遂げたのです。その織物は仕上げ工程を大陸の職人に依存していたので未仕上げ品でしたが、近世初期に宗教的迫害を逃れた大陸からの移民を受け入れ技術移転が起こると、新製品の生産が始まります。新毛織物と呼ばれています。原料輸出国から工業製品輸出国への転換の意義は決して小さくありません。例えば、16世紀後半から17世紀にかけて首都ロンドンが毛織物の中央市場として急成長したのは、その重要な帰結です(坂巻: 2006)

 ポイントは、イギリスを工業立国に押し上げた初期の産業史が、ヨーロッパ内の商品市場と開かれた社会(プロテスタント移民の受け入れ)それぞれの論理に導かれ動いていた事実にあります。やがて産業革命へと繋がる経済成長への流れは、ヨーロッパ内部の事情に見出すことができるのです。
2023.02.20

市場の外でも許される個人による選択

 市場経済の特徴は、個々の経済的選択が大切にされるその社会規範に現れます。そんな個人による選択が目立つようになるのは果たしていつ頃からか。経済史にはそれを探るおもしろさがあります。例えば、結婚のタイミングや独身を貫く生き方は、現在では個人の経済的選択によりますが、そんな当たり前の理屈が、イギリスでは近世までには定着していたことがわかっています(ヨーロッパ的結婚パターン)。この点は、日本経済史との大きな違いです(斎藤: 2022)。

  一方、あまり知られていないのが、人生の終末に行う選択です。封建制の下では相続に選択の余地などないと思われがちですが、実際はその逆で、生前蓄えた資産を誰のために、また何の目的で活用するかは、個人の選択に任されることも少なくなかったのです。チャリティーの伝統を背景にホスピタルと呼ばれる救貧介護施設が増えていく事情は、そのことをよく示しています(Houlbrooke: 1998; 川名: 2024, 第6章)

  興味深いのは、イギリスではそうした傾向が12〜13世紀に伸びる商業都市に早くも見られるようになる点です。個人によって蓄えられた財産を、親族と社会とで分かち合う方法は、近代に財政福祉国家が登場する何世紀も前から社会に定着し始めていたことに気づかされるのです。2023.03.20

農業生産性の高さが光る
工業国家の歴史的前提

 村の慣習や家のしきたり、家族全員で行う農作業、そして代々受け継ぐ小さな農地。自給自足に近いこの小農経済から抜け出し個人主義的農業へ向かうトレンドは、エンクロージャーが盛んになるとされる近世よりも何百年も前から現れ始めます。よい暮らしを求めて有利な土地や自由な都市へ移住する農民が増える傾向も中世に目立つようになります。

 肝心なのは、これらの動きが個々の農民の選択にもとづいて発生した点です。それは農業ビジネスにおいて成功する裕福な農民層(ヨーマン)が活躍するようになる要因でもありました。
 経済のリズムに合わせて選択の自由度が増す方向へ社会も変化していく事情に、イギリスにおける農業経済史の特徴が現れます。そうした傾向は、封建制下の土地保有のあり方にも現れます。

 そうだとすれば、産業革命前夜にはどこよりも生産性が高まる農業にこそ、世界市場を席巻することになる経済力の秘密があったと言えます。しかも高水準の農業経営の発展は、次なる工業国、アメリカ合衆国でも国の基盤づくりにおいて繰り返されることになるのです。
2022.06.09
【参照】比較農業経済史

市長職も商人あきんどが担う
経済大国の底力

近世都市の司法と行政は、商人あきんどが担っていた事実はあまり知られていません。行政革命が起こる1530年代までには市議会を束ねる「市長」を、織物商や小間物商、肉屋や製靴工ら地元の経済人の中から選ぶ選挙が毎年行われるようになります。大きな自治都市の住民らは、今でいう国会議員を選ぶ選挙権も持っていました。イギリスのプロト・デモクラシーの歴史はとても長いのです。

 このような国がどこよりも早く先進工業国となり、世界経済を牽引することになった偶然について考えてみたくなります。やがて何千キロも離れた私たちの都市でも、市民の代表者を選挙で選ぶのが当たり前になるのは、思えばとても不思議なことだからです。
2021.05.18(香港が激変する2021年6月)
【参照】都市の制度

経済的選択が許される
「個人」の位置づけ

 身分や出自に囚われず生きる自由は現代人の特権と思われがちですが、イギリス史にはそんな生き方のルーツを探るおもしろさがあります。選択が許される個人の存在を前提に農業経済が成り立っていたと考えられるからです。

 個人の意義をプロテスタンティズムが浸透する時代(16〜17世紀)に見出す理論は有名ですが、それよりも数百年も前に遡り「個人主義」の兆候を発見する大胆な見解も示されています(Macfarlane: 1978)。職業選択と移住が広く認められていた社会であれば、たとえそれが何世紀も前のことであっても、現在のように労働市場や土地市場といった概念を適用しやすくなります(Harvey: 1984)

 こうした見方が貴重なのは、中世経済史が制度史に偏る傾向があるからです。例えば、封建制、三圃制、農奴制といった用語ばかりに注目が集まると、中世の農業経済には幅広い選択肢があったという肝心な事実を認識しにくくなります。
2022.07. 21

16〜18世紀は近代経済の夜明け

 生産と消費が国力と結びつくとき、あらゆる経済活動がマクロ経済的意味を持つようになります。その発端となるGDPという概念が登場するのは20世紀になってからですが、その萌芽を、17世紀の政治算術に確認することができます。同じ測量でも秀吉による検地と違うのは、その主たる対象が農業ではなく都市で伸びる商工業とサービス業にあったことです。国のリーダー達が海外市場の開拓を見据えていたことです。

  一方、都市化によって社会的分業と経済成長の条件が整うのは16世紀以降。社会的流動性が高まる分、生産と消費がいずれも個人の自発的な経済行為であることがはっきりわかるようになります。こうして国家形成の最中に個人の活躍の場が都市に整うイギリス近世の特徴が現れます(公私混在の経済社会)。個人と公共それぞれの経済論理が市場を介して結ばれるイギリス独特の社会原理は、やがて世界の経済をも大きく変えていくことになるのです。2020.07.16
【参照】 政治と経済自治都市

歴史が動く近世という時代
(16〜18世紀)

 秩序ある市場の定着と消費社会の誕生。こうして伸びる近世イギリスのマクロ経済は、秀でた財政力と軍事力を念頭に計られるようになります。テューダー朝及びステュアート朝期に当たるその前半期(16〜17世紀)に、私的な領主経済の論理は後退し、公共善の達成を視野に法の支配が徐々に定着していきました。大陸法とは異なるイギリス特有のコモン・ローに加え、議会制定法の影響が徐々に大きくなっていたのです。

 ポイントは、これらの動向に合わせて経済効率の面で最も有効な行政単位として「国家」が形づくられ、住民はその必要性を認め納税者としてその存在を納得するようになったことです(国家形成)。そうとわかれば、その後、国と納税者との同じような関係が世界に広まり定着したために、いつになっても国際紛争が止むことはないという不都合な真実を受け止めざるを得なくなります。

 見落としがちなのは、最終的に「国家」は民が操るものという理念に落ち着くイギリスの思想的潮流です。他の歴史を見れば、その模倣は、技術や法制度の場合と違って、そう簡単ではないこともわかるようになります。
(ウクライナ侵攻が始まる2022年2月) 2022.04.20
【参照】近代経済への隘路

経済成長の土台に優れた救貧制度あり

 西欧近世における救貧法の歴史的意義は、中世から続く慈善(チャリティ)の伝統の上に法と行財政に基づく公的制度が整い、救貧の世界にも公と私の2つの流れが並走する「公私混在」の状態がつくり出されたことにあります(川名: 2024, 第7章)。現代の福祉国家においても、個人による寄付や遺贈の影響を見逃すことができない理由がそこにあります。

救貧法は、近世西ヨーロッパにおいて広く導入された弱者救済のシステムですが、都市のみならず農村においても広く導入され、法律らしく全国的に適用された点で、イギリスの例は他国のそれとは異なっていました。だからこそ、救貧法の効果を近世イギリスにおける経済成長の条件と見なす説得力が生まれるのです。
2024.10.22

「産業革命」は
近代経済の始まりにあらず

 高校の世界史の授業で学ぶイギリス産業革命。近代経済の始まりと考えられがちですが、近年、長期的経済成長の一局面という位置づけが定着しつつあります。
 産業革命以前、目を引くのは、中世に始まる市場向け農業や遠隔地商業、近世における人口増加と持続的都市化、それに消費社会の誕生です。これらにも注目することによって、産業革命期をそれ以前の長期の経済史の延長線上に位置づけようというわけです。

  考えてみれば、財政革命により金融サービスの中心地となったロンドンの成長にしても、現代の多国籍企業にも似た東インド会社の設立にしても、イギリス経済の見所は、産業革命期よりもはるか前の時代に顕著に現れます。資本制工場の設置や鉄道の敷設とは異なり、簡単には真似できない独特の諸制度とカルチャーに鑑み、長期にわたる経済成長の秘訣についてどうしても知りたくなるのです。
2020.11.26

人口動態が示す、近代経済への道標

 イギリスが他の西欧諸国に先駆けて産業革命を達成したことは周知の事実です。しかし、それ以前の人口動態に着目すると、近世イギリスは人口増加の面でも、他の西欧諸国とは異なるトレンドを示していたことが明らかになります。

 例えば、イギリスは決して大国ではありませんでしたが、人口増加の速度は早期から他国を凌駕していたことがわかります。1550年頃の総人口がその後倍増する時期を比較すると、イギリスは1760年、オランダは1825年、フランスは1900年でした(Bacci:2000)。また、1750年以降の出生率を比較すると、イギリスでは上昇傾向が維持されましたが、フランスでは低下し、ドイツでは停滞する傾向にありました(Anderson:1988)

 もちろん、人口増加産業革命の直接的な要因であったと断定することはできません。しかし、近代経済への変容の兆候を、工業化の進展ではなく、人口増加のトレンドに見出すことができるとすれば、それは重要な発見といえるでしょう。
2025.03.02

東を向いて東風にあたる意味

 イギリス経済史と言われてまず思い浮かべるのは産業革命ですが、蒸気機関や工場の設立など機械工学的技術革新と同じくらい世界経済にとって決定的な出来事が同時代にありました。アメリカ合衆国の建国です。アメリカ独立革命後の北米大陸がアメリカらしいのは当然ですが、それ以前、13植民地が並び、まだイギリスの影響を受けていた時代(17〜18世紀半)はイギリス史の一部と捉えても不自然ではありません(Gaskill: 2014)

 また、独立後もイギリスと合衆国の歴史にはいくつもの連続性を見出すことができます。経済面では、本国イギリス資本の影響が19世紀を通じて継続し、合衆国経済の発展を後押ししました。政治面における民主的傾向や文化面における英語とキリスト教の影響はよく知られています。奴隷貿易の廃止から奴隷解放宣言への長い道のりも、両国に共通する課題を象徴する歴史的経路となりました。

  興味深いのは、近世イギリス経済の拡張の先に西海岸、太平洋、そして東アジアがあるという考えてみれば逃れようのない地政学的事実です。日米が出会うまでの長い歴史を調べてみると、その筋書きは思いもよらないところから始まっていた事実に気づくことになるのです。2021.08.16
(米国野球で大活躍する邦人選手にも注目)
【参照】市場革命


参考文献

      Anderson, M.(1988),Population change in North-western Europe, 1750-1850. London.
      Bacci, M.L.(2000), The population of Europe: a history, trans. C. D. N. Ipsen and C. Ipsen. Oxford.
      Campbell, B. M. S.(2009) 'Factor Markets in England before the Black Death', Continuity and Change, vol. 24, 79-106.
      Gaskill, M.(2014) Between Two Worlds: How the English Became Americans. Oxford.
      Harvey, P.D.A.(1984) The peasant land market in medieval England. Oxford.
      Hoskins, W.G.(1946) 'The deserted villages of Leicestershire', Transactions of the Leicestershire Archaeological. Society, vol.22 (1946), 241-64.
        Houlbrooke, R.(1998) Death, Religion, and the Family in England, 1480-1750. Oxford.
        Macfarlane, A.(1978) The Origins of English Individualism.Oxford.〔訳書
        斎藤 修 (2022)「中世日本はどのような意味で核家族社会だったのか」, 『社会経済史学』88巻3号,pp.277-92.
        坂巻 清 (2006)「16・17世紀ロンドンのブラックウェルホール毛織物市場の管理について」,『立正大学大学院紀要』22巻,pp.47-68.


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