移住(人口移動) |
移住(人口移動)移動する距離にかかわらず、他の地に永続的、または、半永続的に移り住むことを意味する用語です。人口移動と言い換えることもできますが、日々の買い物や通勤などとは区別されます。交通が発達した近現代では、外国への移住が目立ちますが、産業革命以前の都市化や職業構造の変化を主題とする長期の経済史では、農村から都市への移動を主に思い浮かべることになるでしょう。 移住の理論は、まず、雇用機会の地域的偏在が明確になる工業化の時代を対象に提示されました。すなわち、農村から都市へ押し出されるプッシュ要因と、豊富な労働機会と高賃金を想定する人々が都市に引き寄せられるプル要因によって、移住が促されたと考えられたのです。まず農村から近隣の小都市へ、次に遠方の大都市へと移動する段階的な移住のパターンも注目されました(Siddle:2000)。 しかし、移住を工業化の時代特有の現象と見なすべきではありません。長期の経済史の観点から見ればむしろ、中世及び近世において、移住が農民にとって重要な選択肢の一つであった事情が目を引きます(Dyer: 2006)。なぜなら、それは、西欧の市場経済が近世までに高度化するための必要条件であったと考えられるからです。2024.12.20 移住の選択近世イギリスにおける高賃金経済や農業生産性の向上は、農村から他の農村へ、また農村から都市へ移住する農民が多かったことによって達成されたと言えます。そうした傾向をいつの時代にまで遡り特定できるか。その解明が、経済史研究の重要な課題となっています。都市化のタイミングに注目が集まるのもそのためです。 移住は、変わりゆく経済状況に適応しようとする人々の単なる受動的な行動ではなく、いつ、どこへ、どのように移り住むかを個人がそれぞれの都合をもとに判断する主体的な選択であったことがわかってきました(川名: 2010,第4章;川名:2024,第1章)。例えば、近世イギリスのヨーク市に関する実証研究によれば、プッシュ要因が強かったとされる近世前半期においても人々は、経済状況を見ながら移住すべきか否かを主体的に判断していたというのです。(Galley:1998)。 そこで、移住の歴史的考察では、そうした個々の選択に対するハードルの高さを調べることが重要になります。移動には、当然、海や山などの自然環境による制約があります。しかし、肝心なのは、移住を妨げる慣習や制度の存在を明らかにすることです。というのは、移住に対する制約が少ない程、市場経済は活発化すると考えられるからです。2024.12.21 移住と自由個人の活躍が目立つ西洋経済史の観点から見れば、移住は、人々が共同体的制約から解放される歴史を捉えるための重要なテーマです。また、移動の自由は、マクロ経済学における労働市場モデルが成立するために必須の社会条件でもあります。 為政者は、常に経済をコントロールしようと試みます。しかし、集団的合意形成に基づく政策よりも、個人の都合に基づく無数の選択の方が、社会に対しはるかに大きなインパクトを与えるという真実を、移住の歴史から学ぶことができます。例えば、都市の特徴が人口移動により決まる様子は、そうしたインパクトの大きさを具体的に把握することができる好例と言えるでしょう。 近世イギリス都市の世帯主の多くがわずか数年で住まいを変える移住者であったことが最近の研究からわかってきました。こうした発見は、自治都市の経済が市民権を有する定住者の論理によって動いていたという従来の印象を大きく変えることになるでしょう(川名:2024, 第1章)。 中世における人口移動人々は、どれくらい頻繁に住まいを移動していたのでしょうか。その史実を見極めるのも重要です。なぜなら、いかに移住に対する規制が強まろうとも、実際には人口移動を止めることは困難だからです。それは、死亡率及び転出率が高い都市の人口増加を、自然出生率だけでは説明できないことからも明らかです。公の監視が厳しくなる時代に、都市化が進むイギリス近世が注目されるのはそのためです(川名:2024, 第1章)。そこでは、いかに為政者が人々の移動を制約しようと躍起になっても、雇用機会の地理的偏在に人々が自由に対応できる社会条件が崩れることはなかったのです。 実は、イギリスでは、中世においても人々が移住を選択することは珍しくなかったことがわかっています。とりわけペストの蔓延後に総人口が激減すると、それまで以上に人口移動は活発になりました。労働力が不足すると、当然、賃金は上昇します。そこで、領主の下で働く農民の中には、より良い経済機会を求めて土地を手放し、他の農村や都市へ移り住むことを選ぶ者も増えていきました。領主の方も、農民の流出を防ごうと思えば、農民との交渉に応じて封建的義務や土地保有の仕方に対して好条件を示さざるを得なくなりました(Dyer: 2006; Fideler: 2006)。 村の農民数が少なくなれば、領主は労働集約的な耕作を諦め、牧畜に特化せざるを得ない場合もあったでしょう。一方、農民の間でも選択力が問われるようになる中、借地農から自作農へ出世する者も現れたでしょう。中世イギリスの人口移動が注目されるのは、後に飛躍的に向上する同国の農業生産力の遠因を、そこに見出すことができるからです。2024.12.21 参考文献 |