はじめに |
はじめに遠方の地域との取引が増えれば想定すべき市場圏も当然大きくなります。西洋経済史のおもしろさは、市場圏の拡大に呼応して制度と組織が着実に変化していく様を考察できる点にあります。農業におけるエンクロージャーや、政治の分野で目立つ国家形成はその好例と言えるでしょう。 17世紀におけるビジネスの世界に出現する新しいタイプのカンパニー、東インド会社が注目されるのもそのためです。香辛料や綿織物の取引など実物経済への影響や植民地主義について考えるのも大事ですが、株式会社設立とその後の証券市場の拡大により不動産以外の資産形成の手段が増える経済的・社会的インパクトは計り知れません。地主以外の社会層にも投資のチャンスをもたらし、蓄財方法の民主化を促進したといえます。また、そのようなチャンスは家計収入を増やすインセンティブとなったでしょう。収入増から得られる個々人の満足度は、投資の可能性を踏まえれば、それまで以上に大きくなったと考えられるからです。 都市自治体との類似性東インド会社は、いくつかの面で当時同じように法人団体設立特許状を付与された都市自治体と類似していました 【参考 都市法人】。 まず、東インド会社の構成員は、世襲によるか、徒弟奉公を済ますか、出資するかのいずれかの条件を満たし入会料を支払う者であれば誰でもその構成員としての権利を得ることができました 【参考 フリーメン、 徒弟制度】。また、同会社の経営組織は、意思決定を行う24名から成る役員会 (the Court of Committees) と、毎年その欠員を補充する下部組織の総会 (General Court) を有する同心円的構造を持ち、総会では役員会に対して意見を求めたり、人員の交代を請求したりできるという明確な手続きを採用していました。しかも、初代会長に就任したロンドン市参事会員トーマス・スミスや、1638年に会長を退きロンドン市長となったモリス・アボット卿など、同市と黎明期の同会社との関係は密接であったと考えられます (川名: 2012, 抜粋)。 都市自治体と東インド会社との間に組織上の類似点が見られたのは偶然ではありません。同会社が法人に値する組織と見なされ続けたわけは、都市政府が王権によって統治を委任されるのに相応しい制度を持っていたように、同会社も王国に有利な経済秩序の維持を任せられる意思決定の「仕組み」をもとに経営されていたからでしょう。K. N. Chaudhuri によれば、東インド会社の成功の秘訣は、シティと国内経済の情勢とを反映しつつ、構成員それぞれの意向を汲みながら集団で意思決定ができる組織運営がなされた点、それに合わせて議事録や会計簿など綿密な文書管理が行われていた点にあったというのです (Chaudhuri: 1965)。そうした仕組みの下地となったのは、多様な出自と職業的プロフィールを持つ人々同士の横のつながりを束ねた「カンパニー」と、権威、制度、秩序を基盤に築かれた「コーポレーション」(都市法人)という、都市独特の統治組織であったといえるでしょう (川名: 2012, 抜粋)。 参考文献
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