はじめに |
はじめに近世における奴隷貿易が注目される理由は、何と言ってもその規模の大きさにあります。例えば、サハラ砂漠、紅海、インド洋の各地域を通じて営まれたイスラムの奴隷貿易では、およそ300万人の奴隷がアフリカ大陸から連れ出されたと推計されています。また、16世紀にポルトガル人とスペイン人によってアメリカ大陸へ連行された奴隷の数は年間3千人程でしたが、17世紀には1万9千人に増加し、18世紀には約7万人達したと推定されています(De Zwart and van Zanden: 2018, 54-5)。2024.06.26 近世における奴隷制このように、近世の奴隷貿易は、様々な文化圏にまたがり広範に営まれていた悪しき取引慣行でした。その中で、大西洋を跨ぐ奴隷貿易が目を引くのは、原料輸出国と工業製品輸出国との間の交易条件のもとに成立するグローバル経済の原型がつくり出されたと見ることができるからです。西欧経済は、近世に成長し始め消費需要も大きくなっていきましたが、奴隷は、そうした需要を満足させる原料(砂糖、コーヒー、タバコ、コットン)の生産に従事する労働力として取引されていました。これら原材料の価格が安く抑えられたのは、当然、生産コストがどこよりも安く済んだからです。 一方、見過ごされがちなのが、貧しい国のエリート層の役割にも過去と現在との間で共通点があることです。近世になってから奴隷取引に参入したヨーロッパ人には、現地の人々に取引を強要する力などはなかったとされています。大西洋の奴隷貿易を積極的に動かしていたのは、奴隷を送り出していたアフリカのエリート層であったというのです(De Zwart and van Zanden: 2018, 103)。 奴隷制が当時の西欧経済に与えた影響を考える際には慎重さが必要になるでしょう。産業革命と西欧の経済成長に対する奴隷制の貢献の大きさに注目する見方がある一方で、近年では、奴隷貿易で潤ったビジネスが産業技術のイノベーションを促したことを示す証拠は多くはないという論点も示されています。植民地が西欧産の工業製品の市場になっていたことは間違いありません。しかし、産業革命の核となる製鉄業、炭鉱業、綿工業の革新が奴隷貿易で蓄積された資本によって起こったとする証拠は見当たらないとされています(De Zwart and van Zanden: 2018, 260-1; Koyama and Rubin: 2022)。 欧米経済が奴隷貿易によって潤ったのは確かです。しかしだからといって、マルクスの主張に端を発する近代世界システム論で強調されるように、搾取が近代経済勃興の主要因であったと言えるかどうか。論争は続きそうです。 奴隷制の廃止イギリスは奴隷制を最初に生み出した国ではありません。しかし、初めて奴隷制廃止に動いた国として注目されます。 内乱後の17世紀後半にイギリス商人らは、ポルトガルやスペイン中心のそれまでの奴隷貿易に参入し、18世紀初期までにはその権益を掌握するに至りました(Coleman: 1977)。 ところが、アメリカ独立戦争における敗北の衝撃は、奴隷貿易に反対するキリスト教徒や人道主義者の主張を強める一因となりました。その結果、イギリスでは、宗教的(教会)及び啓蒙思想的(世俗)観点から、奴隷制の存続は困難と考えられるようになったのです(Hopikins: 2018;De Zwart and van Zanden: 2018, 87-88) 。 やがてアメリカ合衆国における奴隷解放運動へと繋がるこうした動きは、人類史上の重要な転換点といえます。時期を同じくする産業革命になぞらえれば、その裏側で起こっていた思想的革命と捉えることができます。 奴隷制廃止の思わぬ影響イギリスでは1807年に、またその後、オランダとフランスでもそれぞれ奴隷制の廃止が決まりました。その結果、アフリカ大陸の経済は混乱に陥ることになります。当時、アフリカには、アメリカ大陸と同じくらいの数の奴隷が存在したと推定されています。アフリカの国々は、当然、大西洋を挟む奴隷貿易の廃止に反対しました。なぜなら、そこから利益が得られなくなるだけでなく、アフリカ内の奴隷の取引価格が暴落することになるからです。 こうした事情により、西欧諸国とアフリカ諸国との間には立場の隔たりが生まれました。それは、その後、現地アフリカに政治介入する口実を西欧諸国に与えることになるのです。(De Zwart and van Zanden: 2018, 114-115)。 参考文献 |