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はじめに 救貧法の効果 ** 救貧法施行の思想的背景 ** 救貧法の歴史的意義 ** ** 受講者のみ |
はじめにエリザベス朝期に導入されたイギリスの救貧法は広く知られています。しかし、救貧の歴史を紐解いてみると、西欧ではその何世紀も前から、チャリティーの制度化が進んでいたことがわかります。 確かに救貧法の施行が16世紀後半に準備され始めたのは、共済組織やチャリティーに依存するだけでは対策が不十分となるほど、貧困問題が深刻化したためでした。しかし、その一方で、弱者を救済する慣行が早くから社会に根付いていたからこそ、救貧法のような公的救貧の制度が人々にも受け入れられたという見方もできます。 この点は、そうした慣行がない国に公的福祉制度を初めて導入する難しさを示唆しています。なぜなら、制度定着までには時間がかかり、一度定着してしまえば、今度はチャリティーの精神がかえって根付きにくくなるというジレンマが発生しかねないからです。公式な福祉制度が機能不全に陥った際、非公式な慈善活動が重要となるのは言うまでもありません。 救貧の歴史から明らかになるのは、課税システムの構築よりもはるかに古い富の分配機能定着の経緯です。かくして、救貧は、生産、流通、消費と同じように、経済と密接にかかわる西洋経済史の重要なテーマと言えます。
2024.10.24 近世イギリスの経済事情16〜17世紀にかけて施行された救貧法を通して明らかにできる歴史の実相は、福祉国家の源流に限らず幅広い。その意味で、救貧法の歴史は、近世ヨーロッパの動向について理解する上で有意義な研究対象と言えるでしょう。 例えば、救貧法の史的理解が深まると、西ヨーロッパにおいて影響力を増しつつあった当時の新興国イギリスの位置づけもよくわかるようになります。同法は、大陸ヨーロッパの国々においても制定されましたが、都市に限らず農村社会にも適用され、その効果が全国に及んだのはイギリスの救貧法だけでした。そうした事実は、当時のイギリス経済が、民富の蓄積及び国家形成いずれの面でも総じて順調であったことを示唆しています。経済成長と政治的統一のどちらかが欠けていれば、同国において救貧法の全国的施行は実現しなかったと考えられるからです。2024.11.29 教区における救貧行政救貧法の歴史から学ぶべき点が多いのは、西欧社会では、救貧の伝統が国家の成立よりもはるか前から、地域に根付いていたことについて深く考えるきっかけになるからです。 救貧法は、全国に設けられた教会区(教区)を利用して施行されました。地域の状況を監督したのは、各州及び各都市において任命された治安判事でしたが、実際に課税・給付の手続きを担ったのは、教区ごとに選ばれた男性世帯主でした。その職は、貧民監督官と呼ばれました。このように、国の制定法にもとづくとはいえ、各教区主体のローカルな行政を想定したところに救貧法の特徴がありました。 救貧法が施行されたのは、16世紀後半を通じて徐々に実施されるようになった救貧及び雇用対策が制定法として包括的に整備された1598年及び1601年とされていますが、その後、すぐに全国の教区で施行されたわけではありません。その動きは、都市では早期に目立つようになりましたが、農村教区では概して緩慢であったことがわかっています。 救貧法が、貧困者の多い大都市でいち早く施行されたのはわかりますが、その他にも重要な理由がありました。貧困対策の面では、自治都市の方が国よりも早くから動き出していたからです。最近の研究によってその動き出しの早さは、中世においてホスピタルや救貧院が設立されるなど、チャリティーの伝統が自治都市に根付いていたことと関係があることもわかってきました (川名: 2024, 第6章)。イギリスの救貧法は、ロンドンをはじめ全国の自治都市においてすでに実施されていた対策を、国の施策としてその後に法制化することにより成立したのです。 参考文献
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