はじめに |
はじめに「なぜ産業革命はイギリスで起こったのか」という問いに対し、これまで多くの学者が答えを出してきました。その結果、産業革命に至る経済史は驚くほど豊かになりました。 1760-1840年に飛躍的に伸びたとされるイギリス経済の成長率及び生産性は、実は過大評価であったことが指摘されて以来、産業革命の歴史的位置づけは見直されるようになりました(Dean and Cole: 1962; Crafts:1985)。しかし、再考の理由はそれだけではありません。近代的経済成長の条件となるいくつもの重要な歴史変化が、近世(16〜18世紀)に見出されたことも理由の一つです。 イギリス産業革命の歴史的前提近年著しい経済のグローバル化を受けて、産業革命の要因を世界史の文脈に位置づける潮流が目立ちます。輸出産業を促進した産業革命は、当然、経済のグローバル化の一要因です。しかし、グローバル化自体を産業革命の直接の要因と捉えるのは無理があるでしょう。主たる技術革新は才能ある個人の発想や発明によるものであり、そうした技術革新の連鎖が起こる前提にイギリス近世に目立ついくつもの国内事情がかかわっていたことが実証されているからです。 17世紀の勤勉革命に続く18世紀の消費革命は、大量生産が報われる経済状況を国内に生み出しました。その他にも効率のよい財政国家の形成(Braddick:2000)や中間層の人々の活躍(Barry:1994)、持続的な人口増加とそれを可能にした農業生産力の強化、さらにヨーロッパ的結婚パターンの定着(Hajnal:1965)が挙げられます。また、近世における都市化と高賃金経済がイギリス産業革命を説明する鍵であることもわかってきました。当時のイギリスには、労働コストを削減し、生産効率を上げる必要性とインセンティブがどの国よりも明確に存在したというのです(Wrigley:1988; Allen:2009)。 産業革命を近現代の変化に着目して評価する方法もありますが、近代的経済成長に必要な政治的、経済的、社会的条件は、それより何世紀も前から出揃い始めていたことがわかってきたのです。近世のイギリス経済史から目が離せないのは、そのためです。2025.05.24 イギリス産業革命とその後の「産業革命」産業革命によって、人類の進む方向は不可逆的に決定づけられたという印象を受けます。その歴史が革命的である理由は多岐にわたりますが、特筆すべきは、ある地域で生まれた新たな技術が、他の国や地域でも応用可能になった点です。 こうした変化は、生産技術が地域固有の自然環境や慣習に強く依存していた農業経済の時代から、生産技術が世界中へ移転可能になる時代へ移行したことを意味します。換言すれば、人類にとって主たる生産技術は、産業革命によって国際公共財になったと言えるでしょう。この点は、「後発工業国の優位」を主張したA・ガーシェンクロンの有名なテーゼに織り込まれている通りですが、最近は先進国における産業の空洞化の要因になるなど影響が続いています(Gerschenkron:1962)。 しかし、収穫逓減の法則が支配する経済において、技術移転だけでは持続的な経済成長は期待できません。なぜなら、産業革命の本質は模倣ではなく、「革新」にあったからです。 技術は、移転先の国の政治、社会、文化に依存せず移転が可能です。一方、技術革新が期待できるかどうかは、経済を取り巻く社会の実情とその歴史的事情に深く依存します。このことは、イギリス産業革命が、どのような政治的、社会的事情を背景に起こったのかを明らかにすることにより検証できます。 アメリカの経済史家W・W・ロストウは、イギリス産業革命以降、次々に他の国も「離陸」すると主張しました(Rowstow:1962)。しかし、だからといってそれらの国々に本当の意味で「産業革命」が起こったと言えるかどうか。経済が低迷する国と未だ発展途上にある国にとっては重要な問いになりそうです。2025.05.23 産業革命と公私混在の経済社会イギリス産業革命の歴史から明らかになるのは、技術革新を導いた主体が、生産プロセスや工学技術に関心を抱いた個人であったという点です。その動機は、野心や好奇心、興味関心に基づく個人の都合によるものでした。発明に役立つ情報も、友人や知人など個人的なネットワークや人脈を通じて媒介されていたのです。 ハーグリーヴス、アークライト、クロンプトン、カートライトら綿織物業の機械化を可能にした発明家の素性が事細かに論じられるのは、イギリス産業革命の立役者が、公共意識の高い政府関係者ではなく、社会正義を目指す運動家でもなかったことを確実に立証するためです(Allen:2017)。そこから、産業革命を導いた技術革新が、政策重視の公式な社会領域の活動ではなく、個人の都合が重んじられる非公式な領域で起こっていた事実を読み取ることができます。 とはいえ、当時の政治体制や政治文化が無関係であったとは言えません。むしろ1689年の名誉革命以降のイギリスでは、経済政策にかかわる立法の数が急増していたことがわかっています(Hoppit:2011)。また、そもそも良好な統治が実現していなければ、発明どころではなくなるでしょう。では、なぜイギリス産業革命の歴史では、個人の活躍が目立つのでしょうか。 産業革命前夜、議会に提出された法案の大半は、私的所有権や地域の利害を守るための限定的なものが多かったとされています(Hoppit:2011)。また、最近の研究において、近世イギリスの都市経済は、公私混在の経済社会に支えられていたことが明らかになりつつあります。経済にとって政府の役割は重要ですが、イギリスの自治都市では、その前提として個人による選択の自由を抑圧しない思想が法制度に浸透していたというのです(川名:2024)。 イギリスでは、中央集権化が進む国家形成の時代(16〜17世紀)においても、都市ではむしろ、選択の自由が許される種々の社会空間が活発に利用されていました。例えば、取引は、公開市場だけでなく、宿屋やエールハウス、そして、個人の住居内でも広く行われていたことがわかってきました(家内取引)(川名:2024, 第2章,第5章)。そうした社会空間は、その後も都市に形を変えて創出されるようになります。有名なコーヒーハウスの営業や小売店舗の増加はその典型例でしょう。 イギリス経済史において18世紀は、都市化が進み、都市文化が開花した時代とされています。同世紀の後半に産業革命が起こるのは、単なる偶然とは考えられないのです。 産業革命の知的影響産業革命といえば、機械化や石炭の効率的利用を可能にする技術革新と工場の設立など生産様式の劇的な変化が想起されます。しかし、その影響は、そうした目に見える変化に留まりません。ビジネスのあり方や経済全体が二項対立的な見方で認識されるようになったことも重要です。産業革命によって、そうした根深い思想的変化も目立つようになりました。 織物業や鉄鋼業、運輸業などに代表されるように大規模な経営組織が成長すると、古くから栄えていた商店や零細な製造業との経済的格差が露わになっていきます。また、持続的経済成長が可能になると、成長(資本主義)と分配(社会主義)のどちらを優先すべきかをめぐり激しい論争が巻き起こります。経済に「あちら立てればこちら立たず」の事情は付きものですが、その傾向がより鮮明になったというわけです。 産業革命の歴史的意義は、単なる技術革新にとどまらず、人類が政治、経済、社会のあり方を根本から見直さざるを得ない状況をつくり、多様な経済思想が対立し共存する複雑な社会構造を生み出した点にあります。実は、大学で学ぶ人文社会科学という学問領域が、そうした複雑な社会事情を紐解く必要性と深く結びついていることは、案外知られていません。 産業革命の歴史的・思想的前提産業革命は、歴史観にも大きな影響を及ぼしました。産業革命の歴史的意義は、生活水準の向上の面において人類史の「到達点」が鮮明になった点にあります。しかし、その一方で、到達した世界の理屈に合わない制度や価値観、関心は失われていくという副作用をもたらしました。歴史的断絶を強調するあまり、産業革命以前の古い時代が軽視される傾向は、その典型例と言えるでしょう。 近年、こうした偏った歴史観は修正されつつあります。目を見張る技術革新が起こった背景には、それ以前から定着していた西欧特有の社会原理や社会構造、社会環境があったことがわかってきたからです。 そこで、宗教改革や科学革命、啓蒙主義の高揚など、近世に表面化した新たな思想的潮流を深く理解することがやはり重要になります。近世に起こる斬新な発想が社会に広く定着するメカニズムも明らかにされつつあります。 例えば、都市の文化が開花したことや中間層を中心とするアソシエーションのカルチャーがイギリス近世社会の特徴として注目されるのはそのためです。こうした傾向は、「都市ルネサンス」(Borsay:1977)や「産業的啓蒙主義」(Mokyr:2002)、「消費社会の誕生」(McKendrick:1989)といった用語によって把握されるようになりました(参考 「行動様式とカルチャー」)。 かくして、産業革命によって露わになった人類史上の「到達点」は、数世紀にわたる広い意味での社会的・文化的変化の帰結であったと結論できるでしょう。産業革命が注目されるのは、西欧独特の世界観・価値観が誕生する「近世」という時代の重要性を再確認できるようになるからです。 参考文献 |