はじめに |
はじめに経済史において人口変動が注目されるのは、史料が乏しい近代以前の経済動向を推定するための重要なデータになり得るからです(参照 歴史人口学)。人口増加は概ね好況を示唆し、持続すれば経済成長の裏付けにもなります。 例えば、封建制下の中世ヨーロッパでは、13世紀末頃まで経済は上向いていたと推定されますが、同時期の人口増加はそのトレンドを裏付ける根拠になります(Cipolla:1981)。産業革命期に人口が爆発的に増える現象も同じです。 工業化の歴史においても、まず目を引くのは人口増加と言えます。というのは、総人口が増えなければ、工業化に不可欠な消費市場と労働人口の拡大はそもそも見込めないからです。 ここで経済史を学ぶ受講生は、人口増加が食糧危機を引き起こす要因ではなく、持続可能な経済成長の必要条件と見なされるようになる歴史的文脈の変化に気づくことが大切です。工業化の時代に世界の総人口に占める西欧人の割合は急激に増えました。しかもこの時期の人口増加は、大量死を招くことなく、持続的経済成長に繋がったのです。人の数が増える現象という点では同じでも、中世の人口増加と近代のそれとでは、歴史的意味が大きく異なるのです。2024.10.16 人口構造の転換ところで、近現代における人口増加の特徴は、食料供給の障壁が低減し、都市や外国への移住など、生活圏とライフスタイルを選択できる範囲が広がる点にあったとされています。著名な人口史学者 L. Bacciによれば、欧米の人口構造は、19世紀に転換期を迎えました。農業生産性の向上により食料供給が安定したこと、都市化により個人本位の生活スタイルが優先され、子育ても合理的に捉えられるようになったこと、国外に住む選択肢が増えただけでなく、輸入できる食料の量と種類も増えたことなどが主な理由と考えられています(Bacci:2000)。 19・20世紀は、人類史において最も顕著な人口増加の時代でした。しかもその間、一人当たりの消費水準が下がることはなかったのです(McCloskey:2006)。 しかし、西欧の人口史が興味深いのは、産業革命よりも前から、これらの条件が整い始める注目すべき経済社会が現れることです。 2025.03.13 持続的人口増加人口増加そのものは、歴史上、特異な現象ではありません。かつてデンマークの経済学者 E. Boserup が主張したように、人口が増えなければ、経済に必要な灌漑システムや交通インフラの整備などの労働集約的な巨大事業は成り立ちませんし、そもそもその利用者が少なければ事業を計画する意味もないでしょう。 しかし、有機経済の限界を超えて長期間持続する人口増加は、本来、起こりえない現象です。なぜなら、人口増加が食料供給量の限界を超えて続くことはありえないからです。近代以前は、いかなる文明も「マルサスの罠」を避けることはできなかったと考えられます(Cipolla:1981)。 一方、19世紀以降、機械化や品種改良、化学肥料の使用、そして、造船・海運技術の向上による運搬の効率化の結果、この悪循環が解消されたことも広く知られています。しかし、それ以前にも、西欧において「マルサスの罠」を回避することに成功した注目すべき地域があったことは見逃せません。イギリスはその代表例です。 イギリスの人口は、15世紀末の数十年間に長い停滞期を脱して増加に転じ、17世紀半ばには約540万人に達しました。とくに、16世紀における増加率は高く、長期にわたる物価上昇の要因にもなりました。 興味深いのは、17世紀に入ると増加率は徐々に下がり、世紀後半には減少傾向が見られたものの、その後は再び増加し始め、産業革命を待たずに持続的人口増加のフェーズに突入した事実です(Broadberry:2018)。近世イギリスの人口増加率は、他のヨーロッパ諸国やアジアの国々と比べても群を抜いていたと推定されます。ある推計によれば、1600〜1820年におけるインドと中国の人口増加率は、それぞれ55%と140%であったのに対し、イギリスの増加率は180%でした(Forman-Peck:2018)。 イギリスの例で注目されるのは、この近世後半期(長期の18世紀)の人口趨勢です。というのは、中世末以来の人口増加によってイギリスの総人口は、17世紀半ばに有機経済の限界点に達し(ペスト襲来前の水準を超過)、イギリス経済は「マルサスの罠」にかかってもおかしくない状態にあったと考えられるからです。17世紀後半の短い停滞期はそのことを示唆しています。 ところが、その後、婚姻出生力は高まり、周産期幼児死亡率の方は減少傾向にあったというのです(Wrigley:2004)。 このような傾向が科学・医療技術の向上によるものではなかったとすると、経済的、あるいは、社会的要因を探らなければなりません。2025.02.16 経済的、社会的要因イギリスでは、1600年以降、食糧不足によって死亡率が危機的に高まることはなくなりました。高い農業生産力もさることながら、出生を抑制するメカニズムが社会に自然と組み込まれ働いていたと考えられます。その結果、経済に加わる人口圧力が抑えられたというのです。そのメカニズムを知る手がかりは、ヨーロッパ的結婚パターンと呼ばれる婚姻の慣行にありました。 近世イギリスでは、このメカニズムが他の国々よりも効果的に働いていたことがわかっています(Hajnal:1965)。実際にイギリスでは、急激な人口増加によって物価が上昇することはあっても(実質賃金低下)、高死亡率を招くような深刻な食料不足は起こらなくなりました。経済状況に応じて出生率が適度に抑えられていたことがその理由の一つと考えられます。 これは驚くべき発見と言えるでしょう。なぜなら、他の西欧諸国では、18世紀においても飢饉はまだ珍しくなかったからです。西欧以外の地域では、19世紀に入っても大量死の危機に見舞われることがあったため、長期の経済成長は見込めなかったでしょう。 マルサスが主張したように、人口増加による食糧危機と大量死(死亡クライシス)は、歴史上、必然的に起こる悲劇でした。ところが、イギリスの経済は、工業化の時代以前にそのシナリオが覆される歴史的フェーズに突入していたと考えられるのです。
2024.12.14 死亡クライシスヨーロッパでは17世紀に死者数が異常に増える死亡クライシスの例が数多く見られました。疫病の蔓延はどの国にも共通の死者数増加の要因でしたが、イベリア半島や南イタリアでは100万人以上が死亡したとされ、三十年戦争の影響を被った地域でも総人口の伸びは抑制されました。(Guenz:2006)。マルサスの言葉を借りれば、過度な人口増加に対し積極的制限の作用が働いたと言えます。 こうした現象は、西欧経済が未だ他律的要因に支配されていたことを示唆し、食料供給力の向上と医療技術の発達により、戦争以外の死亡クライシスの要因を取り除くことに成功しつつある近代経済との違いを示すことになります。 興味深いのは、17世紀の危機において、イギリスが例外的な存在であった可能性です。オランダと共に、この時期にイギリスの総人口の伸びは世紀半ばに鈍化し停滞の兆候が見られたものの長くは続かず、むしろ次なる人口増加を見据えた休息期をもたらしました(Broadberry:2018)。ペストの影響は17世紀後半に自然消滅するまで続きましたが、16世紀半ば以降は都市部に限定されるようになり、食料供給の量は、農業生産力の向上と流通の発達によって十分確保されていたと考えられます(Palliser: 1982)。また、島国のイギリスは、三十年戦争の舞台にはなりませんでした。 出生率と死亡率の変化は、いずれも人口変動の要因となります。人口史研究においてどちらが重視されるかは、扱う時代や場所によって異なります。西欧の人口史では、人口が低い水準で停滞した中世後期(14世紀後半・15世紀)には死亡率が重視され、17世紀の人口停滞期にも死亡率が説明要因として注目されました(Hatcher:2003)。 対照的に、17世紀イギリスのケースでは、出生率が人口変動の要因として注目されます。再びマルサスの言葉を借りれば、過度な人口増加に対し予防的制限の作用が働いたと考えられるからです。ヨーロッパ的結婚パターンが注目される理由もここにあります。2025.03.15 参考文献 |