封建制中世ヨーロッパには土地保有の慣習を基礎に農業経済が維持される封建制と呼ばれる制度がありました。国王とその家臣との間の軍事的主従関係や、その下で営まれる領主と農民との間の上下関係が強調されがちですが、封建制の歴史的意義は、その制度を基礎に、ルールに基づく経済社会が何世紀もの長い間、維持されていたことにあります。封建制は、西欧において市場経済が伸びた前提条件と言えるからです。 そもそも、領主と農民との関係を定める権利・義務は、各村落によって異なっていたので、経済的自由のない農奴の存在をことさら封建制の特性として強調するのは不適当でしょう。農業に携わる農民の自由度には幅があり、経済状況により土地を手放したり、買い入れたり、他の村や都市へ移り住む者も多かったからです。 また、封建制下のイギリス農村では、マナーと呼ばれる領地経営のための仕組みが機能していました。農村民の立場からすれば、それは農村を治める単位と見ることもできます。そこで開かれるマナー裁判所(領主裁判所)はかつて、領主による農民支配の装置と見なされましたが、最新の研究では、労働移動が激しくなる中世後期において、各農村の経済・社会秩序を維持する機能が積極的に評価されています(Gibbs: 2019) 中世の日本にも、マナーと類似の荘園という制度がありましたが、比較経済史の観点から見れば、イギリスのマナーと日本の荘園は、それぞれの社会的位置づけや機能の面で大きく異なっていたことがわかります。 さらに、領主や農民の暮らしは、市場向け農業生産と農産物の活発な取引によって潤っていたことから、封建制と市場の働きの間に矛盾はありませんでした。(Miller and Hatcher: 1978, 242)。土地取引でさえ珍しくはなかったのです。 かくして、イングランドの例を見る限り、封建社会は市場経済の原理を内包していたことがわかります(Broadberry: 2015, Ch.2)。封建制下で中世都市が栄えたのも、自然な成り行きと言えるでしょう(Platt: 1976; Coleman: 1977; Hilton: 1992)。2024.04.29 参考文献 |