はじめに
マクロ経済という概念が意味をなす前提に、国家という行政主体の成立があったことは言うまでもありません。その歴史を、国民国家の建設に拍車がかかる19~20世紀に見出す見方もありますが、イギリス経済史上、国家形成の原点は、1530年代の「行政革命」にまで遡ることができます。
爾来、宗教改革によりローマ・カトリック教会の勢力が弱まる中、政治権力が政府(王権)に集中するようになる一方で、国全体の繁栄が権力行使の目的になる政治システムが整えられていきます。それは、政治権力が一部の権力者(王室)の私的目的のために行使されていた中世的政治体制からの転換を意味しました。法制度の面では、教会法や地域毎に異なる慣習に対する議会制定法の優位が認められるようになります。かくして、近世の前半期(16~17世紀)に封建制から国制への制度変革が勢いよく進むことになるのです(Elton:1953)。
もちろん、こうした初期の国家形成において非人格的姿勢で職務にあたる役人本位の官僚制的支配が貫徹したわけではありません。イギリスでは、「行政革命」の結果、確かに枢密院が設けられ国王裁判所の機能も高まり、国家の実務を担う役人数も増加しました。しかし、地方で実際に統治を担ったのは、政府から直接、あるいは、間接的に権限を授与されたエリートと一般の人々でした(川名:2024,第4章)。
例えば、各地の自治都市に法人格を付与し、行政と司法の権限を与える政策はその典型例と言えるでしょう。また、有名な救貧法の施行も各教区のイニシアチブに任される面が大きく、監督にあたる治安判事は市長が兼任し、一般の教区民自ら治安官や貧民監督官の仕事をこなしました。このように、中央からの政策をそのまま導入するというよりも、地元の現状に合わせた統治を実現したところに、近世イギリスにおける国家形成の特徴があったのです。(川名:2007)
こうして、主権国家の成立を実現する制度変革によって、政府(王権)による権力の乱用が起こりにくい国家の基本構造ができあがりました。その後、イギリスはヨーロッパで最も競争力のある財政軍事国家となり、やがて産業革命期を迎えることになるのです。
2024.09.26
【参考】絶対王政 【比較】幕藩体制
ヨーロッパにおける諸国家併存体制
The European State System
西洋経済史において領域国家の形成は重要なテーマです。なぜなら、ローマ帝国崩壊後に西欧において形作られる政体の中で、近現代に最も重要な効果を発揮するのが領域国家だからです。
西欧には、歴史上、村落からいくつもの領邦により構成された連邦など、様々な規模の政体が発生しました。マナー、都市法人、都市国家、都市同盟や神聖ローマ帝国などが知られています。一方、ローマ帝国が滅びた後、ヨーロッパ全域を支配するような大帝国が長期にわたり成立することはありませんでした。
中でも、最も効果的統治を実現したのが「国家」という行政単位でした。西欧は、いくつもの比較的小さな領域国家によって構成され、その特徴は19世紀以降の工業化の時代においても維持されました。E.Jonesは、『ヨーロッパの奇跡』という著書において、このような地政学的特徴を諸国家併存体制として積極的に捉えました(Jones:2003)。
諸国家併存体制の経済的優位性は、二つの点から説明することができます。一つ目は、国家間の競争を促す効果です。それは、産業革命を起こした最初の工業国が、商業的権益をめぐる国際的競争を経て誕生したことからも説明できます。二つ目は、技術移転の効果です。一国において政治的・宗教的迫害を受けた人々が、その国の知識と技術を携えて隣国へ移住することができたからです。Jonesによれば、外国人移民の受入は国家にとって、経済停滞に対する保険の作用をもたらしたというのです。
西欧における諸国家併存体制のもう一つの特徴は、各国が競合する一方で、共通の文化が存在したことです。例えば、キリスト教という宗教的基盤は広く知られていますが、他にも時間や暦、金融・取引のルール、封建制や言語(ラテン語)などがありました。こうした事情から、ある国で発生する運動が、瞬く間にヨーロッパ全土に広がる現象も納得できます。ルネサンスや宗教改革、科学革命やフランス革命などが想起されます。イギリス産業革命の後、欧米各国の経済が圧倒的速さで伸びたわけも納得できます。2025.05.21
【比較】アジア経済史【関連時事】EU連合、移民政策
参考文献
Braddick, M.J.(2000), State formation in early modern England c.1550-1700. Cambridge.
Elton, G.R.(1953), The Tudor Revolution in government: adminstrative changes in the reign of Henry VIII. Cambridge.
Greif, A, and Rubin, J.(2024), 'Endogenous Political Legitimacy: The Tudor Roots of England’s Constitutional Governance', Journal of Economic History, vol.84, pp.655-689.
Jones, E.L.(2003), The European miracle, environments, economies and geopolitics in the history of Europe and Asia. 3rd ed. Cambridge.〔訳書〕
川名 洋(2007年)「『長い17世紀』のイングランドにおける国家形成―公権力と市民性をめぐる研究動向―」, 『社会経済史学』, 第73巻第2号.
川名 洋 (2024)『公私混在の経済社会』 日本経済評論社.
Hindle, S.(2000), The State and Social Change in Early Modern England, c.1550-1640. London.