はじめに「工業化」の意味を誤解している学生を多く見かけます。経済の仕組みが、工学技術の革新により、製造業の機械化と大量生産体制に依存するようになる歴史的経緯を示す用語と考えられがちですが、西洋経済史の文脈に沿うよう理解するためには、そのような意味では狭すぎます。確かに西洋経済史の特徴は、高度有機経済の発展の帰結に産業革命が起こるという筋書きにありますが、機械制工業の時代よりも何世紀も前から工業生産が伸びていたことがわかっているからです。 むろん家内工業の存在は広く知られています。しかし、肝心なのは、その生産体制が、近代工業と同じように、国際競争に晒されながら国際市場向けに成立していた点です。 プロト工業化イギリス産業革命を植民地主義に結びつける見方があります。綿織物はインド綿の輸入代替による産物であり、マンチェスターの工場で生産されるその原料はアメリカのプランテーションから運ばれていたからです。 しかし、生産工程の機械化と工場における大量生産のようなプロセス・イノベーションの要因を、植民地貿易に探るのは困難でしょう。プロト工業化の歴史はむしろ、産業革命がヨーロッパに内在する要因によって起こったことを示しています。 プロト工業化の理論によれば、農村を中心に問屋制家内工業が発達したことこそ、工場における大量生産体制への経路であったというのです。そのような農村では、零細農家の農民らが安価な労働力として雇用されたので、問屋制は価格競争力の面で有利な制度でした。しかし、生産量が増えれば同制度は、収穫逓減の問題を抱えることになります。工場制への移行はそうした問題を克服する効果的手段となったのです(Clarkson:1985)。 農業地域と地域間分業手工業の発達は、どの時代にも見られる現象です。ところが、プロト工業化には、海外市場向けの問屋制家内工業の成功が不可欠でした。ここで大切なのは、その条件が、中世以来続く長期の農業経済史によって満たされていたことを認識することです。 例えば、西欧中世における毛織物工業の場合、当初から海外市場向けの手工業でした。しかも13世紀に水車が利用されるようになると、農村は都市よりも有利な生産条件を提供できるようになったのです。イギリスでは、その後の産業構造を決定づける技術移転となりました(Carus-Wilson:1941)。 毛織物工業は、現在の自動車産業のように、国際競争が激しい産業でした。当初、毛織物は、商業的先進地域であったイタリアやフランドル産が有名でしたが、16世紀までに良質な羊毛産出国のイギリスから未仕上げ製品として輸出されるようになりました。比較的貧しい原料輸出国であったイギリスが、現在でいう輸入代替工業化を先取りする形で工業製品輸出国へ発展する経緯は、大航海時代よりも前から始まる重要な歴史的フェーズでした。 ところで、プロト工業化が工場制へ移行する第一局面になるのは、海外市場向けの増産が起こるからです。その前提には、耕作には適さない牧畜農業地域の存在がありました。牧畜業は耕作とは異なり、多くの労働力を必要としません。イギリス北部のそのような地域では、家族労働を家内工業の仕事に振り分けることができる農家が数多く存在したのです。一方、穀物生産に適したイギリス南東部の地域では、農村工業は後退し、食料供給に資する耕作が中心になりました(Clarkson:1985)。このように、プロト工業化の成功は、イギリス国内の地域間分業を伴って達成されたのです。 イギリスでは、異なる地質や地形など自然環境に適合した農地利用が促された結果、各地に特色ある農業地域が生まれました (Thirsk:1987)。農村工業を基盤に伸びるプロト工業の歴史は、そうした長期の農業経済史の延長線上において捉えることができるのです。 参考文献 |