はじめに |
はじめに宗教が精神世界を、経済が物質世界を表すという前提に立ち、両者の歴史的関係を探る研究は、実証が難しいテーマの一つです。しかし、かつてM・Weberによって論じられたキリスト教(プロテスタンティズム)の信仰と近代資本主義の興隆との関係は、現在でも学生の関心を集めています(Weber: 1905)。 実はその他にも、中世・近世ヨーロッパの経済について深く理解するためには、キリスト教に関する基礎知識が不可欠になる理由があります。西欧には教会史の流れをくむ諸制度が多いからです。例えば、中世における主要な商業都市は、カトリック教会の司教座が置かれた司教座都市でもありました。また、営利・非営利組織を問わず広く用いられる「法人格」という法的擬制も、教会の制度的・思想的系譜を引き継ぐ西欧特有の概念です。 かくして、西洋経済史を学ぶ者にとって、教会史の探究は、制度史への有効なアプローチの一つとなるでしょう。ここでは、イギリス近世を例に、教会区(教区)について解説します。市場経済が伸びるその時代に、教区の機能は宗教と経済の両面で益々重要になっていたと考えられるからです。都市に顕著な「公私混在」の社会原理を規定する重要な歴史的影響力としても注目されます(川名: 2024)。 2025.05.10 教区とは教区は、司教のもとに組織された教会活動の基礎単位です(Tate: 1946)。しかし、その起源は多様であり、また、その社会的機能と役割は時代によって変化します。それゆえ、経済史の観点から教区を一律に定義するのは難しいでしょう。 教区には、死者の埋葬、教会の維持、聖職者の任命にかかわる枠組を定める機能がありましたが、全ての教区が初めから上位の組織的影響下にあったわけではありません。教会は領主個人の意思により設けられることもあったからです(Loades:1992)。その区域も法的にではなく、聖職者と信者らとの相互依存関係を保つ慣習により定められていました(Webb:1908; Rosser: 1988)。教区の境を確認するために、教区民らが教区の境界を定期的に巡回する習わし(perambulation)があったのはそのためです。 宗教改革以前の教区は、法による厳しい監視下に置かれることはなく、むしろ教区民は経済社会の現実に合わせて比較的自由に教区生活を営んでいたとされています(Kumine:1996)。16世紀以降の中央集権化の時代において西欧諸国では、国制の枠組みが重視されるようになります(国家形成)。しかしながら、人々の生活圏が、行政の論理に先行して、教会中心の小社会として成立していたところに、教区の歴史的意義を発見できるのです。 教区は、修道院とは異なり、初めから世俗社会の中に定着した制度であった点は重要です。例えば、中世都市では、教区教会を中心に都市支配層のカンパニーや商工業者のギルドが組織されるなど、教区は政治的、経済的事情を反映した集団形成の場にもなりました。こうしたことからも、西欧の社会基盤は、聖俗と世俗の論理が重なるユニークな制度によって構築されていたと言えるのです。2025.05.15 教区社会の変化宗教改革期の16世紀になると、教区は地域の行政単位として機能するようになりました。教区にはもともと教会委員(churchwardens)の管轄区域を定める意味がありました。ところが、近世に入ると国や都市政府の要請で、治安官や貧民監督官、幹線路の管理官などの行政職も、教区民が請け負うようになりました(Webb:1908)。教会区であると同時に、行政区として機能するようになった点に、近世教区の特徴が現れます。 実は、教会区がこのような歴史を辿ったことにより、後の民主主義社会の基礎(プロト・デモクラシー)がつくられたという見方が示されています。教会委員ら教区教会のエリート層と市議会の構成員らが同じ人物であることは珍しくありませんでしたが、今や教区のエリート層は、教区の行政職経験者であることも多くなっていきました。国家形成の時代に、救貧法をはじめ、政府の社会政策の導入を担ったのは、これら教区のエリート層だったのです(川名:2010, 第3章)。 かくして、教区委員会の議事は、教会運営と並行して、教区財政や救貧政策など幅広い範囲に及び、教区民の間では、全国共通の政治的課題について話し合われるようになりました。後に成熟した民主主義国家となるイギリスの政治的カルチャーは、近世前半期の教区運営を通して定着しつつあったというのです(Hindle:2000)。 参考文献 |