はじめに |
はじめに救貧の歴史において、エリザベス朝期に導入されたイギリスの救貧法は広く知られています。しかし、西欧では同法導入よりも何世紀も前から、慈善(チャリティ)の制度化が進んでいました。 確かに救貧法の施行が16世紀後半に準備され始めたのは、当時、貧困問題が深刻化し、チャリティや共済組織だけでは対策が不十分となる問題が露呈したためでした。 しかし、その一方で、弱者を救済する慣行が早くから社会に根付いていたからこそ、救貧法のような公的救貧の制度が人々にも受け入れられたとうい見方もできます。この点は、そうした慣行がない国に公的福祉制度を初めて導入する難しさを示唆しています。なぜなら、制度が定着するまでには時間がかかり、一度定着すると、今度はチャリティの精神の方がかえって根付きにくくなるというジレンマが発生しかねないからです。公式な福祉制度がうまく働かない時に、非公式な慈善活動が重要になるのは言うまでもありません。 救貧の歴史から明らかになるのは、課税システムの構築よりもはるかに古い富の分配機能定着の経緯です。かくして、救貧は、生産、流通、消費と同じように、経済と密接にかかわる西洋経済史の重要なテーマと言えます。
2024.10.24 救貧法 The Poor Laws救貧法の施行が注目されるのは、その結果、救貧という、もともと自発的・宗教的な行為が、政府や議会、都市自治体などの公的機関の号令のもとに義務化されることになったからです。それに合わせて、救済に値する者と労働を強いられる健常者との区別が法的根拠をもとに試みられるようになりました。ここに、弱者救済策が財政及び雇用政策と重なるという近代福祉社会の前提となる制度が誕生するのです。 しかし、救貧法によって貧困問題が解決されたわけではありません。これまでの実証研究から、各農村教区において救貧法の法理のうち実際にうまく機能したのは、働くことができない貧困者への給付の方で、雇用対策の方はといえば、資金と雇い主ともに不足していたことにより、総じて同法の目論み通りにはいかなかったことがわかっています(Hindle: 2009)。給付の義務は納税者と受給者双方にとって納得の得られやすい制度でしたが、対照的に、雇用・労働の義務は、雇い主と労働者いずれの立場から見ても、簡単なことではなかったからです。 救貧法への期待は、中世から続くチャリティの伝統を補完する働き以上のものではなかったと考えられます。中世から続く自発的な救貧の歴史について知る必要があるのはそのためです。 救貧法によって貧困問題がどの程度緩和されたかを正確に見極めるには、同法において想定された政策が実際どのように実施されたのか、また、その施策に依存した人々の割合や給付額はどのくらいだったのか、全国的に同法が施行されるようになったのはいつ頃からかなど、同法の影響を推測する上で重要なデータを揃えることが課題となります。2024.11.22 イギリスの救貧法16〜17世紀にかけて施行された救貧法を通して明らかにできる歴史の実相は、福祉国家の源流に限らず幅広い。その意味で、救貧法の歴史は、近世ヨーロッパにおける経済及び社会の動向について知るための有意義な研究対象と言えるでしょう。 例えば、救貧法の史的理解が深まると、西ヨーロッパにおいて影響力を増しつつあった当時の新興国イギリスの位置づけもよくわかるようになります。同法は、大陸のヨーロッパ諸国において広く制定されましたが、都市に限らず農村社会にも適用され、その効果が全国に及んだのはイギリスの救貧法だけでした。そうした事実は、当時のイギリス経済が、民富の蓄積及び国家形成いずれの面でも総じて順調であったことを示唆しています。経済成長と政治的統一のどちらかが欠けていれば、同国において救貧法の全国的施行は実現しなかったと考えられるからです。2024.11.29 教区における救貧行政救貧法の歴史から学ぶべき点が多いのは、救貧の伝統が公共圏や国家の成立よりもはるか前から、地域に根付いていた事実について深く考えるきっかけになるからです。 救貧法は、全国に設けられた教会区(教区)を利用して施行されました。地域の状況を監督したのは、各州及び各都市において任命された治安判事でしたが、実際に課税・給付の手続きを担ったのは、教区ごとに選ばれた男性世帯主でした。その職は、貧民監督官と呼ばれました。このように、国の制定法にもとづくとはいえ、各教区主体のローカルな行政を想定したところに救貧法の特徴がありました。 救貧法が施行されたのは、16世紀後半を通じて徐々に実施されるようになった救貧及び雇用対策が制定法として包括的に整備された1598年及び1601年とされていますが、その後、すぐに全国の教区で施行されたわけではありません。その動きは、都市では早くから活発でしたが、農村教区では概して緩慢であったことがわかっています。 救貧法が、貧困者の多い大都市でいち早く施行されたのはわかりますが、その他にも重要な理由がありました。貧困対策の面では、自治都市の方が国よりも早くから動き出していたからです。最近の研究でその動き出しの早さは、中世においてホスピタルや救貧院が設立されるなど、チャリティの伝統が自治都市に根付いていたことと関係あることもわかってきました(川名:2024, 第6章)。イギリスの救貧法は、ロンドンをはじめ全国の自治都市においてすでに実施されていた対策を、国の施策として法制化することにより成立したのです。2024.11.23 救貧法施行の思想的背景イギリスにおいて救貧法が広く社会に受け入れられた背景には、いくつかの要因が考えられます。その一つは、貧困に対する富裕層、とくに中間層の人々の見方が変化したことです。当時、人口増加と長引くインフレーションにより実質賃金は下がる傾向にありました。貧困者の暮らしが苦しくなるのは当然ですが、社会秩序の乱れを懸念する中間層の人々も増えていきました。16〜17世紀に貧困層の生き方に対する風当たりが強まる背景には、浪費や怠惰を悪と見なす宗教改革後の新思想があったことも指摘しうるでしょう。 エリート層の見方がこのように変わっていく様子は注目に値します。なぜなら、いつの時代にも福祉の財源確保は、富裕層の寛容さに依存せざるをないからです。 イギリスにおいて救貧法による貧困問題への対策が進んだもう一つの要因には、当時、国家形成の時期に入っていた同国の状況がありました。貧困者は潜在的な労働力と見なされ、その有効活用こそ国家の経済的競争力を高める鍵になると考えられるようになったのです(Fideler: 2006)。貧困者を活用する施策が各教区においてすぐに実現することはありませんでしたが、貧困者対策へのマクロ経済的視角は、その後、同法定着の推進力を特定する上で重要な見方になると考えられます。 このように、救貧法施行の背景には、政治、経済、文化全ての面において、当該時期イギリス社会特有の歴史的事情がありました。救貧法の法理が広く人々に受け入れられたのは、こうした事情によるところが大きいと考えられるのです。2024.11.25 参考文献 |