はじめに |
はじめに担保になり得る資産を積極的にビジネスに活用する人のことですが、具体的にイメージするのが難しく、つい大雑把な理解で終わりがちな用語です。例えば、産業革命期に登場する工場主や問屋制度を組織した織元らはわかりやすい例ですが、東インド会社に投資する主婦、ロンドン市の有力な親方職人、裕福な農民(ヨーマン)や下層地主(ジェントリ)らのように、実際に投資をビジネスの一部と考えていた者を含めると、資本家と呼びうる人々のプロフィールは多様であったことになります。 一方、資本家をその下で働く労働者との雇用関係に限定して捉えるのも狭すぎます。資金を投じて技術革新に繋がる新しいアイディアを引き出したり、リスクが大きいビジネスにあえて挑んだりする人々も、資本家として注目されるからです。 社会を「層」として把握する一方で、「個」の集団と捉えることを怠れば、西洋経済史の本質を見誤ることになります。持続的経済成長に結びつくことになる新発見やユニークな発想は、個人によるものが多いからです。それらをビジネスに結びつけ社会に便益をもたらすのも、資本家の重要な役割と言えます。個人の才能を社会の便益に結びつけることができたのは、歴史上、主に社会の支配層に限られていました。近世から近代にかけてその役割を担うアクターは、民間に無数に存在するようになったのです。 資本家の社会的地位資本家の活躍が経済社会の中で、どの程度尊重されていたか見定めることも重要です。リスクが大きいビジネスにあえて挑む姿勢を高く評価する価値観は、近代になるまで一般的ではありませんでした。投機的な商業よりも、地代収入や税収の源となる農業の方が、公的に重視される歴史が長く続いたからです。例えば、19世紀半ばまで採用されていた江戸時代の石高制は、そのことをよく示しています。
その意味で、早くから資本家が政治的、社会的エリートとなる西欧のケースは、世界の経済史において例外的と言えるでしょう(Kocka: 2016)。例えば、近世前期イギリスでは、資本家と政府との結びつきが強まる中、資本家の社会的地位も高まっていたと考えられます。ロンドンの貿易商人や都市の専門的職業人らがイギリス経済においてリーダーシップを発揮するようになるのはそのよい例です(参照 東インド会社 中間層)。2025.02.20 ジェントルマン資本主義新旧のエリート層が併存する時代に双方の対立を想定するのは不適当でしょう。かつて、17世紀半ばの「ブルジョア革命」の要因を地主層と新興の資本家層との対立関係に求める学問的潮流がありましたが、その根拠は定かではありません(Hughes:1991) 。 現在ではむしろ、新旧二つの勢力は、互いに持ちつ持たれつの関係にあったことが明らかになっています。イギリスの地主層は決して反資本主義的ではなく、早くから市場経済に適応していたというのです。こうした見方は、市場経済の原理を内包していた封建制の歴史と整合的であり、長期の経済史の観点から注目されます。 また、資本家の方も、婚姻及び社会的模倣を通じて地主支配層の文化を受け入れていたことがわかっています(Grassby: 1995)。当時のイギリスの資本家たちは、地主的(ジェントルマン的)な趣味や価値観を積極的に受容していたのです。ロンドンを中心とする貿易及び金融ビジネスは、その後、長期にわたりイギリス経済の推進力となりますが、それらを担っていたのが、まさにこのような資本家達でした。17~19世紀におけるイギリス経済が、「ジェントルマン資本主義」の経済と称されるのは、そのためです(Cain and Hopkins: 1986)。 とはいえ、同じ時期に目立つようになる中間層のカルチャーを軽視しかねないこうした見解には注意も必要です。近世における消費革命や都市文化の復興を導いたのは、農村のジェントルマンではなく、都市の中間層の人々であったことがわかっているからです。 資本家とイデオロギー近世ロンドンの詳細な実証研究によれば、首都のビジネス・カルチャーの特徴は、国際性と多様性、社会的流動性と個人主義にあったことがわかります。しかし、その一方で、首都のビジネスマンの価値観は、両義的かつ曖昧でもあったことが指摘されています(Grassby: 1995)。彼らは実利的であり、かつ保守的でもあったからです。 その理由として、当時の社会的事情は無視できません。例えば、東インド会社や大規模な排水事業へ子弟を送り込む者でも、下層地主層(ジェントリ)との親族関係を維持し、宗教的禁欲の精神や自治都市の市民としてのアイデンティティを捨てきれない場合もありました。一方、地主層と一定の距離を置く者でも、事業が不安定になったり、相続の問題に直面したりすれば、土地の購入に動かざるを得ない場合があったのです。 かくして、当時の資本家に特定のイデオロギーを想定するのは難しいでしょう。むしろ個人の都合とその場の状況に応じて柔軟に動くアクターが多かったと考えられるのです。 参考文献
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