国際卓越研究大学
東北大学 大学院経済学研究科 川名 洋教授(西欧経済史)

Prof. Yoh Kawana(Ph.D. University of Leicester)


経済史のキーワード

労働市場
The Labour Market

 

はじめに

 自由で活発な労働市場の存在は、近代経済成長の必要条件です。それゆえ、労働市場を、人間の尊厳を損なう概念と捉えるのは一面的でしょう。人類史では、慣習の縛り、移動手段や情報量の制約によって職業選択の自由が保障されない状況が長く続きました。農奴制や身分制はその象徴といえるでしょう。しかし、個人が自由に仕事を選ぶことができなければ、労働市場は成り立ちません。かくして、労働市場の発生は、人々が不自由な状態から解放される歴史と捉えることができます。その歴史は、西洋経済史の見所でもあるのです。
2025.10.04

中世の労働市場

 西洋経済史において労働市場発生の胎動は、中世に始まります (Braudel: 1979)。労働を強制するよりも、求めに応じて働き手を雇う方が、高い生産性を期待しうるという認識が領主層に浸透しつつあったと考えられます。また、管理コストの点でも、農奴を維持するよりも人を雇う方がはるかに有利です。実際、13〜14世紀のイギリスの領主直営地において、多くの人々が「雇用」されていたことがわかってきました。14世紀半ばのペストの流行によって西欧の人口が激減したことは広く知られています。その後の労働力不足に対応して導入された労働者規制法も、それ以前から農業において多くの雇用が創出されていたことを示唆しています (Campbell: 2009)

 かつて、生産要素市場の発生は、近代経済へ向かう経済社会の「大転換」によってもたらされる近代社会の特徴と考えられていました (Polanyi: 1944)。しかし、イギリスの例が示すように、労働市場は、ペストが蔓延する14世紀半ばまでには既に成立していたと考えられるのです (Campbell: 2009)
2025.10.04

高賃金経済の遠因

 14世紀半ばの黒死病の流行よりも前に活発な労働市場が存在していた事実には重要な意味があります。その後の約150年間は長期の人口停滞期として知られていますが、その間にイギリスでは、よりよい雇用条件を求めて移動する男女が目立つようになったことがわかっているからです。農村から都市への移住も活発になり、その結果、高い技術を身につけた職人や労働者が増加し、賃金水準も上昇しました (Britnell: 1993)

 中世後期のこうした経済状況は特筆に値します。なぜなら、人的資本の蓄積と高賃金経済の遠因をその時代に見出すことができるからです。高賃金経済は、産業革命が最初にイギリスに起こった要因として注目されています (Allen: 2009)。また、都市化が進むにつれて、都市への移住は幅広い社会層の人々の間で、ライフサイクル上、当然の選択肢の一つになりました。このように、労働市場を基盤に成立する中世経済が注目されるのは、その歴史から、封建制がその後の西欧の経済成長の前提になっていたことがわかるようになるからです。
2025.10.05

参考文献

      Allen, R.(2009), The British Industrial Revolution in Global Perspective. Cambridge.〔訳書
      Braudel, F.(1979), Civilization and Capitalism 15th-18th centuries. Vol.II: The Wheels of Commerce. London.〔訳書
      Campbell, B. M. S. (2009), 'Factor markets in England before the Black Death', Continuity and Change, vol.24, 79-106.
      Polanyi, K.(1944), The Great transformation:the political and economic origins of our time. New York.

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