はじめに |
はじめに16世紀から17世紀前期にかけて続いた長期の物価上昇は、停滞するスペイン経済にかわりイギリスとオランダの経済が伸びる遠因となるなど、ヨーロッパ北西部が近代化の基点となるその後の西洋経済史に大きな影響を及ぼしました。価格革命と呼ばれる現象です。 価格革命の要因を度重なる改鋳やスペイン銀の流入に求める見方があります。貨幣数量説をとるマネタリストの論理です。しかし、その時期は長期にわたる人口増加の時代と重なる点にも注意が必要です。人口が増えれば消費財市場は活発化し、当然、物価は上昇すると考えられるからです (Outhwaite:1969)。 人口増加と価格革命物価上昇と人口増加との間の相関は、近世前半期に限った現象ではありません。それは、黒死病の流行にいたる長期の13世紀の経済においても、また、産業革命期の18世紀後半にも考察できる現象でした (Miller and Hatcher:1978; Daunton:1995)。これらをもとに、当時の物価上昇を長期の人口変動の一局面と捉えることもできるでしょう。 物価上昇の様子を細かく考察することにより、人口増加との相関関係はより明確になるでしょう。イギリスの例では、商品によって価格上昇率に大きな違いが見られました。工業製品価格の上昇率は、農産物価格のそれよりも低かったことがわかります。貨幣賃金の上昇率を上回ることはなかったのです。こうした違いが発生したのは、工業製品と農産物に対する需要の価格弾力性が異なるためですが、工業は、農業に比べ生産性向上の恩恵を受けやすく、地代上昇の影響を受けにくいためという説明も成り立つでしょう (Outhwaite:1969)。かくして、これほどまで長期に物価上昇が続いたのは、人口増加による需要増の結果、とくに農産物価格の高騰が響いたためと考えられるのです。 当該期の物価上昇は、王朝名に因んで「テューダー・インフレ−ション」と呼ばれています。貨幣の改鋳と植民地からの地金の流入はいずれも、政府による政策に起因します。しかし、イギリスの物価上昇が目を引くのは、婚姻と出生にかかわる個人の選択によって変化する人口増加に起因する部分が大きかった点です。だとすれば、物価上昇が長引いた主要因は、公的措置ではなく、実は個々の人々のライフサイクル上の出来事にあったと理解することもできるでしょう。 制度変化と社会変化イギリスでは長引くインフレーションによって、国内の経済社会も様変わりし始めました。例えば、救貧法の成立は、実質賃金の低下によって深刻化する貧困問題がきっかけとなった救貧史上の重要な変化でした。物価上昇の影響を受けたのは貧困層だけではありません。地代収入に依存する地主層も、硬直的な慣習的土地保有から地代と契約期間を自由に決定できる定期借地 (lease holdings) への転換を選ぶようになったのです (Overton:1996)。
長期のインフレーションによって導出されたこれらの変化は、封建制が時代遅れとなるきっかけになったと見ることもできるでしょう。というのは、救貧法の導入は、貧困者対策が議会制定法に裏付けられたことを意味し、定期借地への転換は、土地契約に、ローカルな領主裁判所ではなく、中央のコモン・ロー裁判所の司法権が及ぶようになったことを意味したからです (Morrin: 2013; Garrett-Goodyear: 2013)。 経済中心地域の大移動物価上昇に対する人口増加の影響について論じる意義は、価格革命が単に植民地貿易によって引き起こされた歴史ではないことを認識できるようになる点にあります【参考 植民地主義】。人口増加の要因は、出生率と死亡率の変化にあります。つまり、物価上昇が人口増加によって引き起こされた事実から、価格革命が西欧に内在する要因によって起こったと結論できるからです。 一方、価格革命によって西ヨーロッパの勢力図が激変したことは確かでしょう。植民地貿易を主導したスペイン経済は、長期の物価上昇の影響により衰退しましたが、植民地の開拓では後塵を拝することとなったイギリスとオランダ経済は、逆に黄金時代を迎える準備を整えていたからです。 参考文献
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