植民地主義とは |
植民地主義とは 地中海及び北海・バルト海商業圏において蓄えられた西欧の商業力は、16〜19世紀にかけてヨーロッパ以外の地域へ拡張していきます。しかし、全ての国が初めから植民地の政治的支配に乗り出していたわけではありません。例えば、イギリスの場合、当初は主に商業主義が目立ち、貿易量も限られていました(Coleman:1977)。その影響の大きさも、時期と場所によって大きく異なっていたのです。 例えば、ヨーロッパ人によってアメリカとアフリカ両大陸にもたらされた経済的悪影響が近世・近代を通じて深刻であったことは間違いありません(Taylor: 2002)。一方、日本や中国など東アジアに対する経済的影響は、1800年まではわずかでした。イギリス東インド会社がインド支配に積極的に乗り出すのも、18世紀半ば以後とされています。実際に起こらなかったことの証明は困難ですが、インドの例では、植民地化が同地域の経済的発展を阻んだという主張には、多くの歴史家が疑問を投げかけているようです(Allen: 2011, ch.5; Koyama and Rubin: 2022)。 見過ごされがちなのは、未知の世界へ向かった一部のヨーロッパ人らの欲や信仰、好奇心や冒険心でしょう。当時、そうすることがどれくらい危険なことであったかを考えれば、そうした個々人の決断や創意工夫を無視するわけにはいきません。それら無しに現在のような経済のグローバル化は決して起こらなかったとすれば、西欧の世界進出が、果たして政府主体の国家的プロジェクトであったといえるかどうか。この点も慎重に考える必要がありそうです。2024.06.13 西欧独自の経済成長と植民地主義 近代へ向かってどこよりも早く豊かになった西欧経済について調べてみると、その地理的条件、長期にわたる技術革新の積み重ね、強大な政治権力の欠如などいくつもの条件が重なる幸運に恵まれていた事情が目に入ります。また、中世に繰り返される疫病の蔓延と戦争によって高死亡率が続く中でも都市が栄え、その分、賃金が上向く状態が続いたことも重要です。その結果、食費以外の支出と納税額が共に増えたことが、その後の消費パターンや財政運営に積極的影響をもたらしたという見方も示されています(Voigtlander and Voth:
2013)。とりわけ、購買力増加と軍拡いずれの面でも有利となる高賃金経済は、近世に植民地との貿易が伸びる条件として注目されます。 様々な植民地主義近世において西欧諸国はヨーロッパの外に植民地を広げていきました。しかし、その結果、それら全ての国で持続的経済成長が達成されたわけではありません。植民地主義は、経済成長の十分条件ではなかったと理解すべきでしょう。そうしないと、中世における地中海商業圏の繁栄に代わって、近世に北西ヨーロッパ経済が伸びたことや、近世前半に栄えたオランダ経済が徐々に衰退する一方で、イギリス経済は成長し続けた理由を説明できなくなるからです。 西欧諸国経済の明暗に注目するとむしろ、植民地主義以外の重要な歴史が目に入るようになります。例えば、近世前半(16〜17世紀)のイギリスでは、飢饉による大量死の頻度が少なく、やがて起こらなくなることがわかっていますが、その理由を植民地主義に求めることはできません。その時期にイギリスでは急激かつ持続的な人口増加が見られましたが、その一方で植民地からの輸入量は、まだ限られていたからです。17世紀に始まる北米への移住も、国内の人口圧力を緩和するほど大規模なものではありませんでした。 アメリカの経済史学者、ポメランツはかつて、マルサスの罠にはまりかけていた西欧経済を救ったのは、植民地の土地と資源の獲得であったと主張しました(Pomeranz:2000)。しかし、西欧各国が抱えていたそれぞれの政治的、経済的、社会的事情が実証研究により明らかになればなるほど、西欧経済を一括りに捉える見方に対する疑問符は大きくなっていくと考えられるのです。 2024.12.13 植民地貿易は経済成長の秘訣にあらず植民地主義が西欧経済史のキーワードであることは確かですが、どの西欧諸国も植民地の獲得によって等しく豊かになったわけではありません。例えば、国家の統一が遅れたために、近世における植民地獲得の動きに加わらなかったドイツの例は広く知られています。しかし、どこよりも早く植民地獲得に乗り出した国家でも、その優位性を経済成長に結びつけることができなかった例もあります。近世におけるスペイン王国です。 南米ポトシ銀山(1545年)と水銀の鉱床(16世紀末)それぞれの発見により、16〜17世紀にかけて世界における銀の年平均生産量は、約4倍に増加したとされます。大量の銀がヨーロッパに流入した結果、長期にわたる物価上昇がもたらされたことは、価格革命という用語と共に広く知られています。この歴史の中心に位置した国がスペインでした(Kindleberger:1996,ch.5)。 ところが、スペインの産業は、16世紀における長期のインフレーションと実質賃金の上昇に適応できず、国際競争力を維持することができませんでした。その顛末は、同じ物価上昇の影響を受けながら、農業と織物業が共に伸びていたイギリス経済の状況とは対照的でした。 植民地の獲得が必ずしも経済成長に結びつかない事情は、スペインとイギリスそれぞれの首都経済の違いにも現れました。ロンドンが注目されるのは、地主階級を凌ぐ勢いで成長した貿易商人や金融業者らが活躍する場となったからです。また、都市人口の増加に伴い、イギリスの首都経済は、周辺の農業生産性を高め、石炭産業の発展を促したこともわかっています(Fisher:1948;1950;1971;Wrigley: 1978)。 一方、首都マドリードでは、植民地貿易を基礎に勢力を伸ばす貿易商人層の成長は見られず、また、銀払いの手形を振り出した銀行の多くは、イタリアやフランドで営業していたため、スペインの首都において金融ビジネスが発展することもなかったと論じられています。マドリードは、植民地貿易によって得られた富を浪費する人々が集う寄生的都市になったというのです(Kindleberger:1996,ch.5)。 16〜17世紀において見られるスペインとイギリスのこうした違いの要因は何か。その答えから、植民地貿易は、歴史上、経済成長の十分条件にはならないわけを理解することができるでしょう。2024.12.28 参考文献 |