はじめに |
はじめに 移動の自由が経済的にも人権の面でも尊重される近現代の常識から見れば、近世の前半期、1662年にイギリスにおいて制定された定住法は、悪法の誹りを免れないでしょう。その約半世紀前、救貧法の導入によって働けない弱者と健康で働ける者をうまく区別する試みがなされるようになりましたが、給付と雇用機会の偏在によって人々が移住を繰り返す事態に対処できないという課題が残されました。定住法は、そうした課題への最初の公式な対策であったと言えるでしょう。一部の教区に救貧の負荷が集中しないよう、貧困者の移動に対する取り締まりが強化されたのです。 定住法制定の背景しかし、同法の法理は、移住の選択を抑圧することにあったわけではありません。そのことを理解するには、まず救貧法が成立する前から導入され始めた浮浪者取締法 (the vagabonds acts) の弊害について知る必要があります。 その弊害は、浮浪者の定義が曖昧であったために発生しました。地域経済にとって有能な人材の確保は欠かせません。ところが、同法は、貧困であることが疑われれば誰でも恣意的に罰せられる状況を招いたのです。その結果、浮浪者取締法は、経済にとって不可欠な人材の移動をも妨げる原因となりました。 また、農村を後にする移住者が増加の一途を辿っていた点も見逃せません。16〜17世紀において人口増加が続いていたからです。人々にとって移住は、ライフサイクル上、避けられない選択になりつつありました。他方、人口移動の経済効果は、国家形成期のイギリスにおいて小さくはなかったでしょう。この時期に移住のマクロ経済的意義が、公にも認識されるようになったとしても不思議ではありません。 定住法の実効性かくして定住法の制定は、取り締まるべき貧困者をそれまでよりも明確に定義する必要性への対応であったと見ることができます。その後の法改正では、正当な移住を認める努力がなされました。1662年の定住法に基づき、教区の役人は、年間の賃貸料が10ポンド未満の借家に居住する者に対して、その居住地から元の住所地への移送を命じることができました。しかし、1697年以降、許可証を所持する者や自由土地保有及び謄本土地保有を認められた者は、この規制の対象から除外されることとなったのです(Landau: 1995)。 とはいえ、市場やエールハウス、宿屋など市内の至る所で、よそ者に目を光らせていた貧民監督官の仕事が、同法によって効率化されたとはいえません。各教区の事情は異なり、教区のリーダー達や治安判事らの間でも移住者に対する見方には依然として幅があったからです。近世イギリスでは、定住法をもってしても、移住、あるいは、定住の正当性を同じ物差しで一律に判断できるようにはならなかったのです(Styles:1978)。 参考文献 |