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はじめに |
はじめに 「地域」とは地上のある一定の区域を把握するために使われる言葉です。ゆえに、「地域経済」や「地域社会」という用語が生まれます。しかし、地域の境界を定める論理は、全くといってよいほど定まっていません。経済史を学ぶ際、この点には注意が必要です。過去の人々が認識していた地域と、現代人のそれとは必ずしも一致しません。また、地域の意味するところは、その用語を使う者の社会的地位や立場によっても異なっていたでしょう。住み慣れた地元民の認識と、政府や政策担当者の認識も一致するとは限りません。さらに、地域の定義は可変的である点も重要です。 地域経済へのアプローチ経済活動は必ず特定の場所で行われるものであり、それゆえ経済史学では地理的視点が暗黙のうちに想定されています。経済史において「地域」は、主に人々の生活単位を把握する概念として用いられますが、その範囲は一律ではありません。例えばイギリス経済史において地域という言葉は、都市や村、州(county, shire)、マナー、タウンシップ、教区など、多種多様な場所を指す用語として使われています。また、いくつかの州のまとまりをミッドランズやイースト・アングリア、ウェスト・カントリーという呼称で表現することもあります。 地域経済について論じる際には、いかなる説明でもその範囲と論理が示されなければ説得力を欠くことになるのはそのためです。 地域史・地方史 Local HistoryA. Everitt によれば、「地域」の概念は、自然環境や地理的条件に応じて形成された共通の社会・文化をもとに、人々が特定の範囲を固有の区域として意識し始めたことに端を発するとされています。その上に後から種々の新たな地域的概念が上書きされたというのです。州、都市、農村といった行政区画や、産業地域や農業地域、市場圏や文化圏といった学術用語がその良い例です (Everitt: 1979)。 とくに注目されるのは、近世以降、領域国家の都合に合わせて地域が定められるようになる点です。というのは、地域を定める論理には、本来、幅があるものの、行政的定義が暗に強調される歴史的経緯を見定めることができるからです。かかる定義がその地の歴史的・文化的特質を正確に反映していないとすれば、問題です。というのは、自由で民主的な社会において地域をどのように定めるかは、地元民の拠り所となる地域のアイデンティティにかかわる課題でもあるからです (Phythian-Adams: 1991)。郷土史・地方史を含む地域史 (Local History)の視角がありうるのはそのためです (Hoskins: 1954; Thirsk: 1987; Phythian-Adams: 1993; Fox: 2012)。例えば、イギリスでは、レスター大学を拠点に地方史研究を広めたレスター学派が有名です。 農業地域 Farming Regions中世には封建制特有の生産様式が存在したという見方があります。農業のあり方とその地の慣習の間の相関関係を想定する理屈はわかりますが、だとすれば、中世ヨーロッパの農業社会のあり方はむしろ、一律ではなかったと理解されるべきでしょう。なぜなら、農業のあり方はそもそも、地域によって異なる自然環境や地理的条件に規定されていたからです (Phythian-Adams: 1993)。 ヨーロッパには主に耕作と牧畜という二通りの農業が併存していたことはよく知られています。どの地がどちらの農業に適しているかはその地の自然条件に規定される面が大きかったでしょう。その結果、耕作中心地域と牧畜が主となる地域が自然と現れ、両方が混在する地域も出現しました。肝心なのは、その後の経済史に決定的影響を及ぼすいくつもの異なる農業基盤が各地に発生した経緯です。 とくに、イギリス経済史の研究では、そうした農業基盤と地域独特の社会関係の間の相関が明らかにされています。近世イギリスの経済は、いくつもの異なる「農業地域」によって構成されていたというのです (Thirsk: 1987)。 牧畜農業地域牧畜農業地域には、耕作中心の地域とは異なる家族・社会関係が目立ちました。例えば、放牧が主となる農村では、共同体への帰属意識よりも家族の結束力が重視されていたとされます。家畜を率いて住まいと放牧地との間を日に何度も往復し、夜通し家畜の世話をしなければならない畜産農家特有の事情があったからです。また、低木や果樹が混在する地域では、各農家が分散していたため個々の農民の独立心が育まれたとされています。いずれの例も、村民同士の絆を重視する耕作中心地域に典型的な社会規範が生まれにくい事情をよく示しています (Langton and Hopp: 1983)。 牧畜と耕作との間では、農民一人当たりが保有する農地面積にも傾向の違いが見られました。なぜなら、畜産農家にとってまとまった農地を保有し続けるインセンティブは、耕作中心の農家の場合よりも弱かったと考えられるからです。牧畜農業地域では分割相続が一般的となった事情も頷けます。 このような地域では、借地農それぞれの農地面積が小さくなる傾向は、地主側の論理によっても強まったでしょう。特定の農地の地代を上げるよりも、借地農の数をできるだけ増やすことによって、地代収入の最大化が模索されたからです。近世前期に定期借地権が導入されるようになるとその傾向にはさらに拍車がかかりました。 こうした事情は、イギリス農業に2つの帰結をもたらしました。第一に、人口増加に伴って耕作に適さない土地の開拓が進み、北部を中心に牧畜農業地域が広がったことです。第二に、当該地域への移住が活発化したことです。近世後期に大規模農業経営が行われるようになる南部の耕作中心地域とは対照的に、零細農家の割合が北部の農業地域に高まったのはそのためです。その結果、同地域では、家計収入を補うために農閑期に安価な労働力を提供する農家が増加したとされています。そうした半農半工の農民が増える現象は、近世における農村工業の発達、とくにプロト工業化の歴史において注目されるようになるのです。 参考文献
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