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はじめに |
はじめに人類史において大衆消費市場が成立するかどうかは、多数を占める低所得者層の人々の購買力の大きさにかかっています。歴史上、賃金労働者の可処分所得の上昇は、機械化による生産性の向上が起こる時代を待たねばならないことがわかっています。では、産業革命以前のイギリス経済に、なぜ消費革命が起こりえたのでしょうか。その答えを出すのは簡単ではありません。生産・流通の場合とは異なり、消費に関する記録は、歴史上、あまり残されていないからです。とくに労働者層の消費動向を示す史料は少ないため、その実態解明は最も難しい課題の一つと考えられています。 17世紀ヨーロッパに「勤勉革命」が起こったとする J. de Vries の主張は、そうした研究上の行き詰まりを解消し、近世における低所得者層の消費行動に対する学問的関心を集めるきっかけとなりました。現在では、実質賃金が減少傾向にある中でも賃金労働者層の消費意欲が高まった理由も、明らかになりつつあります (De Vries: 2008)。 実質賃金の変化と労働時間賃金労働者の長時間労働の要因は、工場制の導入にあったわけではありません。産業革命以前の世界では、余暇選考のカルチャーが支配的であったと考えられますが、ヨーロッパでは近世において、賃金労働者の総労働時間は、むしろ長くなる傾向にありました。とくにその傾向が顕著になる1650年から1750年までの約100年間は、「勤勉革命」の時代であったとされています。 その提唱者 De Vries は、生産要素市場において、労働価格の上昇率が土地や資本価格のそれを上回る時代には、実質賃金が上向き、仕事よりも余暇を選ぶ労働者が増えると主張します。その理屈にしたがえば、近世ヨーロッパでは、労働価格が相対的に安くなったため、労働者らが余暇ではなく仕事を選び、長時間働くようになったのも頷けます(De Vries: 2008)。 興味深いのは、近世ヨーロッパには、生存のため以外にも、労働時間が長くなる要因が増えつつあった点です。その一つが、宗教改革の影響です。例えば、教会暦に定められた祝祭日の数が減少したことを挙げることができます。また、プロテスタンティズムに準じた社会規範の影響も侮れません。勤勉さが尊ばれ、規律ある生活の遵守が謳われるようになったからです。その影響は、浮浪者対処法及びエールハウス規制の導入や、救貧法の制定により、広く知られるようになりました (Clark: 1983; Beier: 1985)。 しかし、これらの影響は他律的であるゆえに、労働のインセンティブが高まる勤勉革命につながったとは考えられません。労働者らが自ら選んで長く働くようになったとすれば、他の理由を探る必要があるでしょう。
消費意欲と労働意欲近世経済が中世と大きく異なるのは、都市市場を中心に出回る消費財の量と種類が格段に増える点です。De Vries によれば、そのような状況下において、家計収入の限界効用は大きくなるため、男性世帯主のみならず、妻や子供による労働の意義も明確になったというのです。その結果、労働者らは、余暇と自家製の必需品に満足するよりも、市場向け生産やサービス業に従事することを自ら選ぶようになったと考えられます 【参考 プロト工業化 都市化】。かくして、市場経済に適応すべく、社会規範が大きく変わる社会変動の条件が、北西ヨーロッパに整うことになるのです。 近世において、消費財に対する購買意欲が高まっていたという主張が興味深いのは、宗教改革後のプロテスタンティズムの宗教倫理に逆行するそのような意識の変化は、本来、考えにくいからです。ここに、当時の低所得者層の消費行動を実証する意義が浮上します。なぜなら、当時の社会規範が、どの程度、低所得者層の消費行動に影響を及ぼしていたかを明らかにすることにもつながるからです。 近年の実証研究によれば、1600年以降、消費市場の影響は徐々に、そして、着実に、低所得者層にも及んでいたことがわかってきました。例えば、17世紀前半の地方都市レスター市やチェスター市の事例は、そのことをよく示しています (川名: 2010; 川名: 2024)。 参考文献
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