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はじめに |
はじめに イギリスでは、1563年の制定法により、徒弟制度が法制化されました。その効果は都市の徒弟数に明確に現れました。ロンドンでは、16世紀半ばから17世紀半の約100年間にその数は3倍に増加したと推定され、1600年までに毎年4000〜5000人の徒弟が市内のギルドやカンパニーに登録されるようになったというのです (Brooks: 1994)。地方でも徒弟制度を有する自治都市は若者を広範囲から引きつけました。例えば、イギリス東部のノリッジ市やグレート・ヤーマス市、イプスウィッチ市の徒弟の出身地は、全国に広がっていたのです (Patten: 1976)。 定住者、移住者、社会的流動性徒弟制度の法制化は、単に徒弟の数に影響を及ぼしただけではありません。徒弟制度は、市民に相応しい社会規範の定着を促しました。徒弟となった若者は、職に応じた技能の他に、チャリティの精神と誠実さ (honestas) という市民(フリーメン)の間で共有すべき価値観を身につけることが期待されていたのです (Brooks: 1994: Withington, 2005)。 都市では、職業の細分化によって職種間の競争が激化する一方で、よそ者との共生という課題も生じました。零細な手工業者から医師や法曹などの専門職に携わる人々に至るまで、徒弟制度には、都市の経済・社会条件に適応する人材を育てる意図があったのです。徒弟制度を通して身につける技能と規範は、中間層の人々のアイデンティティの源であったという見方も示されています (Earle: 1989; Brooks: 1994)。 近世イギリスの都市経済は、制度上、定住者と移住者の共生を前提に動いていたことが実証されています (川名: 2024, 第1章, 第3章)。徒弟制度は、そのわかりやすい例と言えるでしょう。市民の職を継承する若者の多くは、他の都市や農村で育ったよそ者でした。しかし、ひとたび都市のフリーメンとなれば、営業権を得る代償として、無償で治安官の職を務めるなどの社会的責務を負い、かつ市内に定住することが義務付けられたのです (川名: 2010, 第3章)。 徒弟制度は、都市のギルドやカンパニーにとって、組織の次代を担う若者を取り込むための不可欠な仕組みでした。それは、よそ者の出入りに依存しなければ成り立たない都市経済の現実に即した制度であったとも言えるでしょう。このように、職業と移住の選択が禁じられるどころか、それを公式に支えた都市制度の働きは見逃せません。そうした開かれた制度の存在は、経済成長に不可欠な社会的流動性の促進要因でもあったことがわかっているからです。 徒弟制度と公私混在の経済社会西洋の自治都市を、封建領主から距離を置く政治的コミュニティーの形成に見出す見解は広く知られています。そのような見方から、自治都市がフリーメン中心の定住者の社会であった印象を強く受けます(都市の公式な領域)。一方、都市は、多くのよそ者を受け入れる社会でもありました。しかも数年で他の地へ移住する者も少なくなかったことがわかっています(都市の非公式な領域)。 徒弟制度は、これら2つの社会領域にまたがるユニークな制度でした。その働きから、イギリスの近世都市は、「公式」と「非公式」両領域が重なる「公私混在の経済社会」であったことがわかるようになるのです (川名: 2024)。 参考文献
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