はじめに |
はじめに近世前半期のイングランドには、全国に約760の市場町が存在したことがわかっています。これら小都市の市場は、週に1〜3回、定められた曜日に開催され、半径約7マイル圏内の住民に農産物を提供し、その多くは特定の農産物に特化した専門市場としても機能していました (Everitt: 1967)。各市場は、地域内で競合しないように互いに一定の間隔を保ち、なるべく開催日が重ならないよう開催されたので、消費者並びに業者らは、一週間のうちに複数の市場を利用することができました。 都市では、主食のパンや水の代わりに消費されたエールに法定価格が設定されました。それは、価格の高騰を招かないよう麦の収穫量に応じて価格を調整するためです。経済的弱者に配慮する精神は、 市場の運用にも共通していました。その機能の一つは、生存に必要な農産物やその加工品が、貧困層に行き渡るように流通のあり方を監視することにありました。買い占め、転売、独占を禁じることも市場開催の狙いでした。また、規模の大きな自治都市の市場では、生鮮食品や皮革製品の品質検査が行われ、商品価値の維持が図られていました。 こうした市場とそのネットワークの存在は、近世イギリスにおいて食料供給が安定する要件となっていたと考えられるのです。 「公式」と「非公式」歴史上発達する公開市場の起源を辿ると、取引は、元来、個人の都合による自発的な経済行為であったことを改めて想起することができます。市場はそもそも公権力とは無縁でした。例えば、イギリスでは、9〜10世紀頃、商人や手工業者、農民らが城や 修道院付近に集まり、また日曜日には教会の庭に集まり取引が頻繁に行われるようになったことが知られています。しかし、12世紀に至るまで、market という言葉が制度や権利を意味する法律用語として使われることは少なかったというのです (川名: 2012, 抜粋)。 市場では、むしろ公権力の対極にある地元の慣習の力や個人の裁量が取引の行方を左右したと考えられます。 取引に意欲的な個人の自発性に加え、排除の思想が薄い開放性、さらには、当事者同士の信用が重視されたからです。また、12-13世紀頃の建設都市では要となる公開市場の開設も、その経済効果にあやかる領主の個人的動機がきっかけとなる場合が多かったと考えられます (川名: 2012, 抜粋)。 実は、初期の市場の繁栄にこそ、正式に記録されるようになった「週市」増加の原動力があったのです。非公式の淵源である取引の影響力と公権力との接点に、パブリックな制度が出現したのです。かくして、公開市場の歴史には、都市に公私混在の経済社会が発生する経緯を理解する重要なヒントが隠されていると考えられるのです (川名: 2012, 抜粋)。 公開市場の出現中世ヨーロッパの交換経済は、歳市 (fairs) と週市 (markets) という二種類の市場によって活性化されていました。教会暦に沿って年に数回規則的に開催された歳市は主に卸売市場として機能し、そこでは遠方からやってくる商人らが核となり家畜やチーズなどを専門に扱う売場が設けられていました。過去の取引で成約した大型の決済が行われるのも歳市の特徴でした。一方、週市は、毎週一定の曜日と時間に開かれ、主に地元で生産される食料や手工業原材料が売買されていました (川名: 2012, 抜粋)。 イギリスにおける週市開催認可数は、13世紀の第3四半期をピークに1200〜1349年の間に数千に達していたと推定されています。このような週市数の増加傾向は、まず人口増加とそれに伴う農産物・手工業製品需要の全国的な拡大によって説明されるでしょう。しかし、この増加は、増える取引量を反映した単なる数の問題ではない点に気づくことも大切です (川名: 2012, 抜粋)。 肝心なのは、市場を監督し法的位置づけを明確にする制度の有用性が認識され、取引という本来個人的な営みが形式の上で公権力の影響下に置かれるようになる経緯です。つまり、週市の増加の歴史的意義は、商業が発展し取引の制度基盤が全国的に整う方向づけがなされるということにあったのです。それは、都市民や農村民、領主個人ではなく、王権という広域権力に認知される市場が増えることによって達成されたのです (川名: 2012, 抜粋)。 参考文献
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