最終メンテナンス:1997年10月4日
※本稿は図表を含んでいないので、ここに掲載されているものが全文である。
余談:日本経営学会では、毎年、全国大会の報告者が報告内容を論文にして『経営学論集』に掲載することになっているようだ。本稿も、別掲した同名の学会報告を論文としたものである。この編集方式の功罪については色々と議論があるようで、よくわからない。ただ、独立の論文としてみた場合、紙数制限があまりにきついため、内容的に中途半端になり、また注や参考文献を十分につけられないため道義上も問題が残ることは否定できない。なお、文中の「デューケンス製鉄所」は、「デューケン製鉄所」が正しい発音に近い訳のようである。
本稿では、アメリカ最大の鉄鋼メーカーであるUSX(旧社名U.S.Steel)社におけるコーポレート・ガバナンスの展開過程を、1980年代以降のリストラクチャリング期を中心に分析する。こうした課題設定を行った背景には、最近のコーポレート・ガバナンスをめぐる論議に対する一定の問題意識がある。
第一に、よく「日本企業はアメリカのコーポレート・ガバナンスに学べ」という議論を聞くが、その内容について必ずしも共通の合意がないことである。「アメリカでは株主が強い」と漠然と想定されることが多い一方で、「所有と支配の分離」や「経営者支配」の存在が多数の研究者によって指摘されているのである。議論を内容のあるものにするためには、まずリストラクチャリング下のアメリカ企業において、ガバナンスがどのように変動したかをトレースしておくべきではないだろうか。そして、それは成長産業だけでなく、成熟産業についても行われるべきではないだろうか。
第二に、近年の日本企業論では労働者を主体として組み入れる傾向にある。リストラクチャリング下のアメリカ企業にとっても、そこで日本の労務管理・労使関係が参考にされたこともあり、この提起は現実味がある。労働者をガバナンス論に組み入れることが必要である。
そうした考えでアメリカのリストラクチャリングを見ると、労働組合が弱体化したように見える1980-90年代に、組合の経営参加が進展するという逆説的な現象が見られ、その解明が要請されてくる。USX(U.S.Steel)は、この問題に接近するための格好の対象である。
戦後、1970年代までの鉄鋼業の成長とガバナンスの構造につい、ごく簡単に述べる。
まず株主と経営者の関係であるが、鉄鋼業の利益率は、1960年代以降、製造業の平均を下回るようになり、株価が低迷したが、U.S.Steelを含む上位の企業ではおおむね経営者支配が安定していた。
次に、労使関係は次のような構造を持っていた。まず、経営と生産の基本事項は経営権に属するとされた。その反面として、産業別労働組合である全米鉄鋼労働組合(USW)は、団体交渉を通じて賃金・付加給付、労働条件を引き上げることに力を集中した。そして、職務と先任権を中心とする職場管理の体制がつくられた。労働者は先任権システムによって上司のえこひいきと、それによって互いに競争させられることを防止した。また、業界共通の職務評価方式によって、準同一労働同一賃金を確保しようとした。そして、経営側も、一定の条件、つまり国際競争の相手がおらず、生産が安定し、労働コスト上昇分を生産性上昇か価格引き上げで相殺できる限りにおいて、この枠組みを容認してきたのである。
1970年代になると、世界的な過剰生産能力が明らかになり、輸入鋼材が急増した。その上、ミニミルと呼ばれる電炉メーカーも台頭して、一貫メーカーの業績は悪化した。この競争力問題の出現によって、鉄鋼業には何らかの構造調整が要請されていたが、根本的な変化は生じなかった。経営者もUSWも、輸入鋼増加の原因を外国のダンピングや重税、環境規制などに求めていた。経営側、特にU.S.Steelは、労使が協力する生産性向上運動に消極的であり、組合は成長期と同じように賃上げ・付加給付の拡大に力を集中していた。株主にも特別な動きは見られなかった。
しかし、「国際競争のない一国的成長」という前提が失われた下では、ガバナンスもまた変化せざるを得なかった。以下、U.S.Steelの経営に話を絞り込んでみていこう。
1979年、財務畑出身のDavid RoderickがU.S.Steel会長兼CEOに就任し、「コンペティティブな利益」追求のために、原料・資源関連産業への「資産再展開」戦略を発動した。その中心となったのが、石油会社Marathon Oilの買収であった。実に59億3,500万ドルをかけた買収で、資金は資産売却とシンジケート・ローンで調達された。買収後のU.S.Steelは、売上高の7割以上を鉄鋼業以外の事業が占めるようになり、設備投資も石油・ガス事業が過半を占めるようになった。
こうした企業行動に対して、鉄鋼業を見捨てるディスインベストメントであるとの批判が高まったが、U.S.Steelはその後も石油会社化をおしすすめた。84年にはHusky Oil社を、86年にはTexas Oil and Gas(TXO)社を買収した。 これらの買収を通じてU.S.Steelは油田を比較的安いコストで獲得した。さらに1986年7月には、社名をUSXに改名し、組織改革を行った。本社の下に鉄鋼業、Marathon Oil、TXO、多角化事業の四つの事業ユニットをもうけ、それぞれ独立採算で運営することにしたのである。
こうしてRoderickの思惑通りにいくかと見えたが、TXOの買収後に石油価格が低迷したこと、Marathon Oil買収の際に巨額の負債を抱え込んだため、TXOの買収では株式交換方式をとり、それが安定株主の持分を薄めたことが、事態を急旋回させた。株価が85年秋の33ドルから86年夏の14.5ドルへと低下し、また筆頭株主である従業員貯蓄プランの持分が、最大時の18.6%から86年の4.9%まで落ち込んでしまった。
要するに、多角化によって手っ取り早い利益回復をめざしたにもかかわらず、その過程で株主の利益を十分に実現できなくなったということである。経営者と株主の利害の乖離がここに生じていた。
1982年から83年にかけて、アメリカ鉄鋼業は戦後最大の不況を経験し、U.S.Steelは鉄鋼業においても徹底したリストラクチャリングに着手した。その中心は、工場閉鎖・大量レイオフであった。81-85年に生産能力が780万ショート・トン、従業員が62,000人弱削減された。
労使関係においては、会社は組合に譲歩を強く要求するようになった。1983年労働協約改定交渉では、賃金の約10%削減、早期退職奨励などが取り決められた。
しかし、この時期の最大の特徴は、会社側が単に組合に譲歩させただけでなく、労使関係の従来の枠組みを自ら破壊するスタイルで大規模にリストラをすすめ、その過程に対する労働者や地域の諸階層の関与を排除しようとしたことであった。
例えばサウス製鉄所の事例である。1981年にU.S.Steelは、組合の譲歩と州当局の条件整備があればレール工場に設備投資をすると約束したが、後に10時間労働などいっそうの譲歩を要求した上、ついには投資を撤回して製鉄所の大半を閉鎖した。この過程で、シカゴ大司教が「関係当局、政治家、組合幹部、地域社会の代表、宗教界の人々」との協議、工場の転用を申し入れたが、U.S.Steelは拒否した。また、85-86年にはデューケンス製鉄所でも、従業員所有企業による再建プランが会社に拒否された。
サウス製鉄所についてRoderick会長は、工場を買い取ろうとする人々に「サウス製鉄所をまかせたら、いま働いている1,100人の従業員もいまから2年以内に失業するに決まっている」と断言した。一方、製鉄所存続のプランを出したカッセル弁護士は、「経済性がそれほど悪いなら、なぜ地元の人々にデータを公開しないのか?」と主張した。ここでは、単に効率性や生産性だけが争われていたのではない。工場を評価し、運営することに関与する権利をもつのは誰かという、統治主体の資格が問われ、経営者権力の正当性に疑義がはさまれていたのである。
さらに、外注問題をめぐっても厳しい攻防があり、会社側はしばしば仲裁裁定で敗北し、不当労働行為を認定された。
このようにして、労使の対立は、利害関係自体の鋭さという意味でも、従来の枠組みが破られていくという意味でも先鋭化していった。
株主と経営者、経営者と労働組合、この二つの対立は、1986年後半に一つに結び合って爆発するのである。
1986年は労働協約改定交渉の年であったが、メーカー側が業界での統一交渉を中止し、会社毎の業績に応じた交渉に切り替えた。USXでの争点は、賃金・給与の譲歩と外注問題であったが、会社側の強硬な譲歩要求にUSWは抵抗し、協約は7月31日に期限切れとなった。USXは25工場から2万2,000人の労働者を締め出した。この行為は、ほとんどの州でロックアウトと判定され、多くの労働者は失業保険を受け取ることができた。
この事態によって株価はいっそう下落し、資産の帳簿価格をはるかに下回った。このとき、企業買収家のCarl Ichanが株式の11.4%を買い付けて筆頭株主に台頭し、全株式に対する公開買い付けの提案を行った。彼の重要な資金源は、投資銀行Drexel Burnham Lambertが仲介するジャンク・ボンドの発行であった。その目的は買収後に資産売却を行い、差額を得ることであった。USWはこうしたIchanの買収を支持しなかったが、買収が成功した場合には組合が鉄鋼業だけを買い取って従業員所有企業にするという方針をとった。
三つどもえの買収になるかとも思われたが、Ichanは87年初頭にオファーを取り下げた。理由は、経営陣が、買収コストを引き上げる、いわゆるポイズン・ピルなどの財務政策を実施したことと、年末にBoeskyというサヤ取り業者がインサイダー取引で告発され、Drexel周辺にも捜査が及んでジャンク・ボンドが使いにくくなったことによるものであった。
以上の混乱を経て、87年1月31日にようやく新労働協約がUSWの組合員投票で批准された。この協約は、賃金・給与の削減、1,346の職務削減など、経営側の要求を反映した面もあったが、外注に他社並の制限を加えることなど、組合の努力も反映されていた。そして、協約を他社の3年に対して4年間有効とすること、チーム・コンセプトの導入など、労使関係そのものを変化させる兆しもみられた。
ところが、この4日後、USXは生産能力を27%、要員を3,400人削減すると発表した。当然ながら、操業が停止される工場の労働者の中には、4日前に労働協約案に賛成した者が数多く含まれていた。
結局、この長期の操業停止はUSXに約5億ドルの損失をもたらし、一方、譲歩によって3億から4億ドルを節約したと言われている。もともとUSXがめざしていたような設備・人員の削減へ一気に向かうことになったものの、労使関係の枠組みは破壊され、不信感はそのまま残されたのである。
1980年代後半以後、鉄鋼業のリストラは一段落した。能力・人員の縮小が続きながらも、設備投資が復調し、業績も87-90年と94-95年は黒字になった。円高もあって、生産コストが年によって日本を下回るようにもなった。
この過程で、Ichanは今度は鉄鋼業の80%を売却するように要求した。彼は、鉄鋼業を持っているために、せっかくMarathon Oilの業績が良くてもUSX全体が低く評価されて株価が上がらないと主張したのである。この提案は90年の株主総会で否決されたが、40%の支持があり、経営陣は株主の不満に対処することを迫られた。そして、91年から92年にかけて、USX普通株がU.S.Steelグループ株とMarathonグループ株、天然ガス事業のDelhiグループ株に分離され、それぞれが上場された。
こうして株主・経営者の協調関係は回復に向かった。鉄鋼業は、高く売ることができないがために、保持したまま合理化されることになったのである。
一方、労使の対決も、業績回復を反映して和らいできた。1991年協約では、賃金の回復など組合の要求が反映された。そして、94年協約では、労使関係の新たな枠組みづくりをめざす内容が盛り込まれた。賃上げや、生計費調整のボーナスもさることながら、もっとも重要なことは、取締役会に組合が席を確保したということ、「大損失」の場合をのぞいてレイオフをしないという雇用保障が明記されたことであった。これと引き替えに、組合はいくつかの作業ルールを削除し、職務の統合や人員の再配置に柔軟に応じることに同意した。
この協約は、新たな正当化の枠組みとして、産業の危機において労使の基本的利害は一致すること、労使はCooperative Partnereshipであることを打ち出した点で画期的であった。この背景には、組合側の動きもさることながら、会社側が、過剰設備の整理が一段落したので大規模レイオフはもはや必要ない、年金給付などを勘案すると小規模レイオフはコスト削減にならない、と判断したことがあった。
しかし、ここでも枠組みと利害関係自体は同じとは限らない。そもそもUSWの経営参加は、強権的なリストラによって弱体化させられたが故に、会社側に容認されたという側面がある。このような状況下で、工場と労働者の生き残り競争に参加させられたという側面も否定できないだろう。また、空前のレイオフ・解雇によって、新しい枠組みに関与しようがない多くの人々を生み出した後のできごとであることも忘れてはならない。作業ルールの変更にしても、チーム・リーダーの動きなどを見ないと断言はできないが、職務と先任権を中心とした制度自体は変わっていないようである。
国際競争力問題が顕在化して以来、アメリカ鉄鋼業は構造調整を迫られてきた。それがどのような具体的形態をとるかは、あらかじめ決まっていたわけではないし、「株主か経営者か」、「敵対か協調か」という単純な図式によって決まったわけでもない。むしろ、経営者、労働者、株主を中心とするステークホルダーが、どのような戦略を持ち、対抗・協調・妥協の中でどのような制度がつくりだされるかにかかっていたと言える。
結果として、株主・金融機関によってモニタリングされた経営者が優位に立った。「資産再展開計画」といい、Ichanのテーク・オーバーといい、USXをめぐる企業買収の行動原理は、産業の長期の再編戦略ではなく、短期のコストとリターンの比較の論理であった。U.S.Steel経営陣だけでなく、銀行シンジケートも、Ichanらの有力株主もまた、そのような基準で行動した。例えば、銀行シンジケートは、Marathon Oil買収のためでなければ、より高い金利でしか貸し付けを行わなかっただろうと言われている。しかも、石油会社の取得というリストラクチャリングさえも株主にとっては不十分とみなされて、株式の売却、Ichanの台頭が生じ、経営者権力が、おそらくは戦後初めて危機に陥った。その対応がまた、いっそう激しく、手っ取り早いリストラクチャリングを促進したと言える。そして、実際にUSXの収益性は回復した。
短期的リターンを唯一の基準とした事業再編、能力縮小・人員削減という形態のリストラクチャリングには批判も多い。特に多角化と工場閉鎖は、鉄鋼業への投資を減らしたディスインベストメントと言われている。しかし、漫然と鉄鋼業へ投資したところで過剰能力を激化させるだけだったであろう。問われていたのは単に「投資をするかしないか」ではなく、「どのような構造調整のために、鉄鋼業へどのような投資をするか、その決定に関与する資格があるのは誰か」であった。リストラクチャリングが、労働者や地域社会に負担を強いただけでなく、組合の発言権強化、従業員所有、コミュニティによる所有と経営参加など、多様なステークホルダーが関与する対抗戦略を権力的に排除し、戦後労使関係の正当化の枠組みさえも破壊しながら強行されたことが、問題をいっそう深刻にしたのである。
1990年代に入って、パートナーシップ的労使関係が新たに正当性を獲得しつつある。しかし、USXが多様なステークホルダーに開かれたものになってきた、と単純にとらえることはできない。新しい枠組みは大量解雇を前提として築かれた制度であり、産業別労働組合が何よりも阻止しようとしてきた労働者間の競争を容認している。労働者の所得が収益性や生産性と連動させられる傾向が強まっているのである。
ただし、組合が全面的に弱くなる一方だとみなすこともまた単純に過ぎる。USWは、労働者間競争をある程度認めつつも、その適用範囲を規制する姿勢も失っていない。また、鉄鋼業の危機を逆用して、産業を救うためには組合の発言権が認められるべきだと主張したことは、経営者権力に対する説得力ある批判となった。コミュニティの多様な階層との連携も一部で実現した。マスコミの動向から見ても、組合の抵抗が競争力を低下させるという経営側の主張の広がりを一定程度くい止め、逆に経営姿勢への疑問を惹起することに成功したようである。
冒頭での問題意識に即していえば、こうなる。利害関係の衝突自体については、株主・金融機関とともに短期的なコスト・リターンの論理を体現した経営者が優位に立ち、労働組合を始めとする他のステークホルダーは厳しい試練にさらされた。しかし、まさにその同じ過程で経営者権力が鋭く批判され、労働者や、地域社会の多様な人々がコーポレート・ガバナンスに関与することの正当性と可能性が提起されたのである。
1990年代の日本のコーポレート・ガバナンス論議をみるならば、「もうからない、経営者へのモニタリングが足りないに違いない、だからアメリカのように株主・金融機関による監視を強化せよ」という論理が、あたかも唯一必然のものであるかのように語られている。しかし、USX社の経験が教えることは、そうした論理は独善的であり、それに導かれたリストラクチャリングは、経営者権力に対する批判を呼び起こさずにはいられないということなのである。むしろ探求されるべきは、構造調整の多様な形態と多様なステークホルダーの関与の可能性であろう。
主要参考文献
Hoerr, John P., And The Wolf
Finally Came, Pittsburgh, Univ. Of Pittsburgh Press, 1988.
Kawabata, Nozomu,
Technology, Management, and Industrial Relations Of U.S. Integrated Steel Companies,Osaka City University Economic Review,
Vol. 30 No. 1・2, January, 1995.
Scheuerman, William, The Steel Crisis, New
York, Praeger, 1986.
橋本寿朗編『20世紀資本主義T』東京大学出版会、1995年。特に橘川武郎論文と仁田道夫論文。