更新日:2000年4月12日
1999年度の経済書講読クラスの最終日(2000年1月26日)に実施した受講者アンケートの結果に対するコメントである。回答結果は別ページを参照。
アンケート結果を読んで考えさせられたことは非常に多い。予想していたとおりの回答もあるが、予想外のものもあり、やはり学生自身にきいてみなければわからないことが多いのだと気づかされた。
以下、主要な項目についてのコメントである。
何よりも意見をききたかったのは、この点である。実際、おおぜいの諸君が回答してくれてありがたかった。
多数の意見としては、このスタイルは好評だったようである。スタイルそのものに否定的な意見は一つもなかった。とくに、学生自身が論点を提出し、調査し、レジュメや文章で発表することの訓練にはなったようだ。ゼミを通した専門教育への移行に役立ったと自負していいであろう。このスタイルについては、正直なところ、うまく運営できなかったどうしようかと不安に思っていただけに、何よりも嬉しく、またほっとした。
とはいえ、やはり問題もあったようである。
ひとつは、当初から覚悟していたことなのだが、英語の講読と内容の検討の二兎を追うことになり、中途半端さが残ったことである。学生諸君も、論点を出す際に両者が混じってしまったようだ。うまく交通整理できなかったのは私の責任である。
次に、「もっと討論をしたかった」、という意見が非常に多かった。これは、実は予想外の多さであった。私は、学年度の当初は、全体討論の際に、班や個人にあてて意見を求めるようにしていた。しかし、特定の人以外はあまり発言してくれなかったことと、時間が足りなくなりがちだったため、秋頃からは報告班の報告とコメント班の発言の後は、全員に発言を促すだけにしてしまった。そして、実際に発言が極めて少なかったので、学生諸君に、討論したいという要求がさほどないのかと思ってしまったのである。アンケートによって、この判断が誤りであったことが明らかになった。討論の要求はあるが、教官が全体に促しただけでは発言しにくい、ということであろう。また、私のおしゃべりな性格から、意見が出るのをじっと待たずに自分で解説してしまったことが、討論を不活発にしたのかもしれない。学生どうしの討論をもっと促す方法について研究していきたい。
班単位の運営については、「助けあって人脈も広がった」という意見と、「ほとんどコミュニケーションがなかった」という意見の両方があった。ある程度自己責任でやってもらうしかないのであるが、なるべくコミュニケーションをしてほしかった。経済学部の場合、1年生の時のクラスが分解してしまうと、情報交換・相互援助の小単位がサークル、寮、自主ゼミ、仲のいい友達(その平均人数は減る傾向にあると聞く)に限られてしまう。自主ゼミはよいとして、それ以外も、なるべく勉強を通じたつながりももって欲しかったので、班を設け、また、課題を調べる際に1-2週間の期間を保証したのである。コミュニケーションのおしつけはしないが、機会は設定し、改善策も考えていきたい。
「あたらないときは暇だった」という受け止めも多かった。これは、前述の討論促進の問題であるとともに、クラスあたりの人数が多すぎて、全員が毎回討論に参加できないという問題である。後者をすぐに解決するのは難しい。というのは、当学部は、おそらく少人数教育の保証という点ではかなり進んだ経済学部であって、これ以上、少人数授業を増やすのは難しいからである。ただ、1、2年生にもっと少人数教育の機会をつくらねばならないという問題意識は、全学的に存在しており、現在、改革案の検討が進められている。経済書講読や経済学部の枠を超えたところで改善していけると思う。
ちょっと諸君に考えてほしいのは、「暇でつまらない」という意見もある一方、「暇で良かった」という意見もあることだ。諸君は、高額の授業料を払ってわざわざ大学にきているのだから、暇であったら、教官に「授業料に値する教育サービスを提供せよ」と要求するのがスジであろう。大学に来させられている、あるいは大学で遊ぶ、という発想が、ためらいなく表明されているのは考えものではなかろうか。
机の配置に関する意見があった。ゼミ形式に適した教室変更ができないかどうか、調べてみればよかったかもしれない。
テキストとプレゼミスタイルの両者があいまって、テーマの取り上げ方が「広く浅く」になった。このやり方は、どちらかといえば良かったようである。体制移行の諸問題に即しながら、市場と計画、企業と政府、所有権の意味、効率性とそれ以外の基準、競争と独占、社会的費用、などの基本概念について考察できたし、マルクス経済学、近代経済学、経営学の色々な論点を、それぞれの長所を中心に紹介できたからである。論点の提示と簡単な解説をして、「詳しくは、それぞれ選んだ専門や関心に応じて考えてみてください」という提起で結ぶスタイルにしたことは、2年生に対しては適切だったと思われる。
テキストの英文について、「難しかった」という意見が多い反面、「やさしかった」という意見はひとつもなかった。これも意外な結果であった。というのは、授業案内にも書いたとおり、私としては、英文が易しいテキストを選んだつもりだったからである。この食い違いの原因は三つ考えられる。
第一に、テキストに比喩やことわざの引用、文学的な言い回しが多かったことである。この部分に限って言えば、確かに難しかったし、申し訳ないが、私自身もわからないところや、誤って訳してしまったところがあった。従来から予告しているように、できる限り修正した全訳を配布することによって、授業を補完することとしたい。
第二に、内容重視のスタイルにしたため、すべての文の訳については解説しなかったことである。しかし、アンケート回答の多くが、「テキストの英文が難しかった」と言っており、訳文解説をしなかったことを批判しているものはないことに注意を要する。
となると、第三に、学生諸君の英文読解能力が低いのではないかと考えられる。実際、諸君の訳文を読んでいても、見事なものもあったが、関係代名詞にお手上げといった悲惨なものもあった。また、意見の中でも指摘されていたが、日本語になっていないケースもあった。正直な感想を言うと、このテキストで「難しい」と言っているようだと、今後が心配である。
選択回答によれば、私の説明に対する学生諸君の理解度は高いらしい。これをどうとらえるべきだろうか。一つは、私の説明が適切で話が面白いという可能性である。それなら喜ばしいが、あまりコメントは必要はない。もう一つは、テーマを「広く浅く」とったので、初歩的な説明はしても高度な理論や実証に立ちいった解説はしなかった、そのため理解できた、という可能性である。「広く浅く」話したことは、前述のとおり、2年生の諸君には適していたと基本的には思っている。ただ、自学自習を進めている学生にとっては物足りなかったかもしれない。回答の中にも、もっと高度なことをしたいという要求が感じられるものがある。調節が難しいところなので、少し考えさせて欲しい。
寮問題に関する学生協ニュース・学生協だよりの配布について、肯定的な意見と否定的な意見があった。
まず、学生協関連の連絡が多すぎる、あるいは「中立公正」でないという意見があった。学生協関連広報資料の発行回数が異様に多かったことは事実だが、事態に即してやむを得ないことと考える。また、この件に関して、私は大学当局の一員であるから「中立」ではありえないし、個人としても大学当局の方針は正しかったと考えている。しかし、「公正」であろうとは努力したつもりである。大学側の見解を説明した後で、必ず東北大学学生寮自治会連合や各寮のビラも読んで自分で判断することを勧めたし、また、その場で反論したい学生には発言する権利を認めたはずである。ここまでやっても「かたよりすぎ」という評価には納得できない。
次に、学生協ニュースを「学内にはびこる共産勢力の違法性」を示したり、「滅共に向けて全学が一致団結する」ための基礎になるという意見があったが、まったくの誤解である。寮問題の解決は特定思想を排除することとは何の関係もないし、そのような方針を大学はとってはいない。私は学生協資料を配布する際に、電気料問題や入寮募集停止問題における寮連や日就・有朋寮の見解を大学当局の見地に即して批判したが、彼らを「共産勢力」と規定したことはない。この意見は、私が諸君に身につけて欲しいと思っていた学問的態度と大きく異なっており、非常に残念であった。
講義の中で、私は、集権的計画経済と無制限な自由放任主義には批判的な意見を述べたが、マルクス経済学、近代経済学、経営学の諸潮流のいずれについても、その問題意識の切実さや、理論としての長所と私が思うところを中心に話したはずである。また個別の政策的論点についても、必ず二つ以上の立場を紹介したはずである。それは、2年生の諸君には、私自身の学問的見地を知ってもらうよりも、多面的にものを考えること自体の大切さを知ってもらおうとしたからである。世界観や学問的見地の異なる者どうしが、互いの立脚点を尊重しつつ対話を拡大し、学問的に切磋琢磨することが、大学にふさわしいと思っているからである。不正確なレッテルを個人・集団に貼りつけることも、思想を理由に人を排除することも、大学にはなじまないのではないか。寮問題への評価とは別の問題として、このことを考えていただきたい。
なお、寮問題以外の各種連絡については、おおむね好評なので、1、2年生の講義を担当する年度には継続していきたい。