基礎ゼミ「構造改革と日本経済」期首レポートへのコメント

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掲載:2002年5月9日

担当教官(経済学研究科助教授)

川端 望

 

■レポートのねらい

 このレポートのねらいの一つは、今後のゼミの前提として、日本経済の現状に対する諸君の受け止め方を把握することであった。むろんゼミで勉強する以前のことであるから、必ずしもまとまった意見でなくともよく、むしろ経済に対する感覚のようなものを知りたかったのである。

 もう一つのねらいは、日本経済論という社会科学の一分野に取り組むにあたって、学問的な姿勢、態度について考えてもらいたいということであった。これも、体系だった方法論などというものではなく、本を読み、問題を発見し、考える姿勢というほどのことである。

 

 以下、具体的にコメントする。

 

■形式上の問題は大人であるかどうかの目安である

 多少の誤字・脱字はいいとして、文法の混乱には気をつけて欲しい。特に気になったのは以下の三つのパターンである。

・「である」調と「です・ます」調が混在している。

・何かを主張しようとしているのだが、きちんと説明されていないために読者にはわからない。

・主語と述語が対応していない。

 こうした文章は、諸君の学力の問題というよりも姿勢の問題である。何度も見直せば気がつくことだからである。

 ポイントは、「大人が、他人に、評価してもらう」ことを考えているかどうかである。厳しく言うならば、文章がおかしいと「意味が通らないので即失格」とされてもやむを得ないということである。それでも読んでもらおうというのは、「子どもが、仲間うちや自分を保護してくれる大人に、助けてもらう」という姿勢を表現している。これでは世の中に通用しない。

 むろん、社会に出てからの人間関係と、教官−学生間のやりとりには違いもある。しかし、大学の教官と学生は、サポートし、サポートされることはあっても、学問に関する「大人と大人の関係」であることを忘れないで欲しい。

 

■まず「何がわからないか」を発見しよう

 諸君はまだ大学レベルの社会科学を学んでいないので、本書の内容を全部理解できなくてもちっとも恥ずかしいことはない。例外的に勉強している人は別として、わからなくて当然である。むしろいまの段階で重要なことは、「何がわからないか」を発見することである。本格的な学問においては、問題は先生から与えられるのではなく、自分で発見するのである。そこから勉強が始まる。逆に、「何がわからないか」を発見できずに、ただ「著者のいうとおりだ」とうなずくだけでは、実は勉強を始めることすらできていないのである。今回のレポートには、両方の態度がみられた。

 

 さて、今回「わからない」こととして発見された主要な問題は、デフレ・インフレのメカニズムと不良債権問題の性格であった。これは経済学の専門的な知識がある程度ないと手に負えないので、ゼミで学んでいくことにしよう。たとえばレポートからは、直接・間接に以下のような疑問点が提出されている。

・デフレとインフレとはそもそも何か。どのようにして起こるのか。

・近年、なぜ物価が下落しているのか。

・デフレやインフレの何が問題なのか。

・円の暴落は何に影響を与えるのか。

・なぜマネーを市場にジャブジャブと垂れ流すのか。

・行き場を失ったお金とは何か。

・通常の財・サービスに関するデフレと資産デフレとは同じものなのか。

・なぜ企業と金融機関の失敗を処理するために公的資金が使われるのか。

・ペイオフの仕組みはどういうもので、本来、何を目的としているか。

・バブルとは何か。どのように発生し、崩壊したのか。

 

 なおここでは省略するが、地域経済や失業問題など他の分野でも、いくつかの問題が発見されている。

 

 次に、多くのレポートで指摘されてはいるが、問題の発見に至っていない例をあげる。それは、経営者の能力に関する問題である。「無能な経営者が居座っていることが問題だ」というテキストでの指摘に対して、「そうだ、許せない」という賛同の意見が多く寄せられている。しかし、もし市場によって経営者の能力や実績が評価されているならば、経営者が無能であるほど会社はもうからず、したがって経営者は会社の持ち主によって交替させられるはずである。なぜそうはならないのだろうか。ここまで考えていただきたいし、この問題がどうテキストで扱われているかも読み込んで欲しい。そこから、「株式会社では経営者はどのように選ばれるのか」という基本的な事実を調べる必要が出てくる。さらに、「経営者は何を目的に行動しているのだろうか」とつっこんで行けばなおいいだろう。

 

 問題をたてるときには、テキストの言葉だけに引っ張られずに、「つまり、具体的にはどういうことだろうか」、「それならBになってもいいはずなのに、なぜAになるのだろうか」と想像してみることが大事である。あるレポートで記述されている以下のような思考プロセスは、こうした想像力がはたらいている例である。

「まずバブルが起こったのは、金利が低くなってお金が世の中にたくさん出回って、行き場を失ったお金が期待をもとに土地や株に流れていったからかな、と思ったのですが、行き場を失ったお金とはどういうものなのかまったく見当がつきません。お金がたくさん財布の中にあったということなのでしょうか。でもそれならば物価もそれなりに高くなっていて、たくさんお金が入るけどたくさん出て行くという状況になるのではないのかな、と思うのですが。ではその疑問は置いておいて、世の中にお金がだぶついているとします。なぜみんな土地や株に投資したのでしょうか。他のものでは駄目だったのでしょうか。先ほど、バブルが起こったのはお金が期待をもとに土地や株に流れていったからだと言いましたが、その期待とはいったいどのようにして湧き上がってきたのでしょうか」。

 

■「どうすべきか」の前に「なぜこうなっているのか」を考察しよう

 諸君が現在の日本経済について、何らかの問題意識をもっていることがレポートから感じられたのは幸いである。諸君くらいの年齢だとバブル経済とその崩壊という昇降感覚をあまり感じていないようだが、そうであっても現在の日本経済がどこかおかしいという感触は広く共有しているようだ。

 特にルール無視という問題については、多くのレポートが驚異と怒りを表明している。取引のルールの問題は、以前はあまり経済学で注目されなかったが、近年は重要なトピックとなっているので、これからおおいに学んでいただきたい。法学・政治学の場合はいうまでもない。

 さて懸念されるのは、問題意識からいきなり強い主張に走っているレポートがいくつか見受けられることである。無能な経営者が悪い、もっと若者が活躍しなければならない、企業の古い体制を抜本的に変えねばならない、リーダーシップが大事だ、等々の主張がみられる。しかし、社会科学的な根拠が述べられていない。まだ勉強していないのだから丁寧に根拠づけることができないのは当然であるが、そういう場合は、強烈な主張をいきなりぶつけるのではなく、問題を考察する方にエネルギーを向けて欲しい。

 これが自然科学であれば、私の言いたいことは諸君もすぐにわかるだろう。分子や原子がある観点からみて不正常な動きをするからといって、「誰それの責任だ。こうすべきだ」とか「神に背く行為で怪しからん」といっても始まらない。なぜそのような動きをするのかを、できるだけ客観的に分析することである。しかし、諸君に限らず多くの学生がそうであるが、社会の問題になると、つい分析する前に「こうすべきだ、ああすべきだ」という思考になってしまうことが多い。

 これは深く考えると社会と自然、社会科学と自然科学の相違に関わっているのだが、いま複雑な議論は省こう。とりあえずこれから学問を始めようとしている諸君には、社会も自然と同様に、できる限り客観的な観察の対象とするところから出発していただきたい。つまり「どうすべきか」という前に「なぜこうなっているのか」と問題を立てて考察するのである。たとえば無能な経営者が本当に企業の業績悪化の主な原因かどうか、どうすればそれが判別できるのか、仮にそうだとしたら前述のようになぜすぐに解任されないか、を調べてみることである。企業の体制のどこが古いのか、どのような意味で古いのか、古くからある欠陥なのか、かつてはよく機能したものが機能しなくなったのか、政府が誤っているならば、どこがどう誤っていて、なぜ誤りが繰り返されるのか、といったように分析的にものごとを考察することである。この問題設定と考察の上に立って、はじめて説得力のある主張ができるのだ。逆に、こうした考察抜きに何事かが強烈に主張されると、悪い意味でのイデオロギーとなっていくのである。

 

■今後の勉強に向けて

 以上の点を諸君なりによく考えて、ゼミでの勉強にのぞんでいただきたい。また、レポートで発見された問題は、ゼミの中でもどんどん取り上げていく。担当班を中心に調査してみよう。

 

 

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