掲載:2002年6月21日
5-1. 本章の課題
テキスト5章には二つの内容が書かれている。ひとつは市場経済の下で政府がとるべきマクロ経済政策についてであり、もうひとつはそれをどう駆使して移行経済を安定化させ、市場経済へと移行させるかである。
著者は市場経済移行政策を主として安定化の問題を通して語っているが、これはテキストが書かれた時期に制約された、少し狭い見方である。また、市場化や私有化と異なり、安定化の話題は経済学入門に用いるには狭すぎる。そこでここでは、市場経済におけるマクロ経済政策の必要性と、安定化以後の局面を含めた市場経済移行政策という、二つの話題を切り離して取り扱う。
5-2. マクロ経済政策の視点
■市場経済における政府の役割
私的所有権を初めとするルールの設定と審判(3,4章)
マクロ経済政策(本章)
「市場の失敗」への対処(6章)
■マクロ経済政策
目的
完全雇用の維持
経済成長の促進
貨幣・信用システムの安定
■前提1.――国は国民を解雇できない(小野[2001])
ミクロの視点
企業は労働者を解雇して経営をスリム化した方が成長できる場合もある。
生産性の低い労働者を雇っておくのはムダである。
選別が正確であれば、生産性の低い労働者を解雇する。
マクロの視点
国は国民を解雇できない。
労働者が失業している状態がもっともムダである。
需要が足りない限り、たとえ労働者全員の能力が等しくても失業者は出る。
■前提2.――合成の誤謬(小野[2001])
ミクロの視点
消費を控えて倹約し、お金をためれば家計に余裕ができて豊かになる。
マクロの視点
国民多数が消費を控えて倹約すると、消費が減り、物が売れず、企業業績が悪化し、失業が増えて不況になる。
5-3. マクロ経済と景気
■景気・不景気は需要が決めるか供給が決めるか
一国の総需要
GDP=消費+投資+政府支出+純輸出
需要重視政策と供給重視政策
需要重視:ケインズ経済学(ケインジアン)、テキストの財政主義者
有効需要によって所得と雇用量が決定される→金融緩和や財政支出の拡大を通した有効需要拡大によって景気刺激を行う。
供給重視:サプライサイド・エコノミクス
税制等を通じた勤労意欲促進、貯蓄の増大、研究開発支援、リストラクチャリング支援などで供給側の能力を高める。手段は一定せず。
※日本の内閣の政策のおおざっぱな見方
財政赤字を拡大し、「世界一の借金王」になってでも財政拡大によって景気回復をはかった小渕内閣の政策は需要重視といえる。
「構造改革」によって政府関連の非効率な部門を切り捨て、不良債権を整理して金融システムを正常化し、効率のよい部門や新産業を伸ばそうとする小泉内閣の当初の方針は供給重視といえる。
「需要重視」策の作用――景気政策の王道だが、内容の問題や副作用がある。
需要が拡大すれば失業は吸収され、程度の差はあれ景気は回復する。需要が拡大しない限り、景気は絶対に回復しない。
景気回復の度合いは、需要の中身や、需要拡大によって促される供給体制の変化にも依存する。
財政赤字を拡大することで需要を拡大すると、将来の国際償還額が拡大する。
「供給重視」策の作用――本来、景気政策ではない。
経済活動のコーディネーションの仕組みやルールを改善することはできる。
個々の産業の生産性や競争力は向上させられる。
完全雇用状態ならば、低効率部門を整理し高効率に資源(ヒト、モノ、カネ)を移動させれば経済全体の生産性も上がり、経済成長も促される
不況の時には、需要の拡大とセットにならない限り、経済全体としては景気を落ち込ませる危険がある。
企業が投資を抑制してコスト削減と雇用削減に走ることを促す。
低効率部門の縮小で職を失った人は高効率部門に吸収されない。
5-4. 財政政策
■なぜ有効需要政策が必要か
完全競争が実現していれば、労働市場を含むすべての市場で需給が均衡する。労働市場では市場賃金ですべての労働者が雇用される。
現実には市場は不完全であり、有効需要が不足した際に価格による調整が作用せず、現在の賃金で働きたくとも職のない失業者が生まれる(非自発的失業)。
このメカニズムが生じる理由については様々な説がある。
→市場経済で完全雇用を維持するためには、政府による有効需要政策が必要である。
大恐慌の教訓 (秋元[1995]、林[1988]等を参照)
1929年から始まる大恐慌(アメリカ失業率は1933年に24.9%)→各国各様の政府介入へ(ニューディール、ファシズム、スターリニズム)→第二次世界大戦
完全雇用は先進国経済の重要な政策目標に(アメリカでは1946年雇用法制定)。
■財政赤字の政治経済学
財政支出の中身によって経済のあり方は影響される(宮本[1981])
軍事国家のベクトル(1950-60年代アメリカ)
福祉国家のベクトル(1950-60年代イギリス)
企業国家のベクトル(高度成長期日本)
財政赤字の経済学
ケインズ政策の元来の考え
不況期:財政支出増大(需要刺激)――財政赤字拡大(国債発行)
好況期:財政引き締め(需要抑制)――財政赤字縮小(国債償還)
「後年度負担」はマクロ的には存在しない(小野[2001])
お金を得て、後に返すのだから負担だけがあるのではなく、差し引きゼロである。
財政支出の便益(失業吸収)があれば、財政支出をすべきということになる
財政赤字を問題化させる政治経済的要因
財政支出を望む社会的圧力は、財政緊縮を望む圧力より大きくなりやすい
政治的に減税や財政拡張は容易だが、増税は困難
財政赤字は分配構造を変える(便益を得るものと「後年度負担」を負う者がいる)
財政支出で所得が増大した者vs国債償還のために税金を徴収される者
財政赤字の問題
国債発行が通貨の増発によってまかなわれるとインフレーション圧力が発生する。
増税が政治的に困難であることが多いため、将来の政策的自由度が拘束される
過度な国債発行は通貨の国際的信用を失わせる
財政均衡論の問題
財政赤字が生み出す問題への批判としては意味がある
市場の不完全性から失業が生じることを軽視するならば、本質的に問題を解決しない。
※ケインズの学説は、簡潔には伊東[1962]、より詳しくは伊東ほか[1993]を参照。
■5-2から5-4の小括
マクロ経済政策への見方は、「市場の不完全性による失業の発生」をどう評価するかによって左右される。
財政政策の可能性は政治経済的な要因によって左右される。
※金融政策については解説を省略する。
5-5. 移行経済の安定化と成長
■抑圧されたインフレーションの顕在化としてのハイパーインフレ
物価統制と物不足→購入延期とたんす預金→価格自由化による購買力顕在化→ハイパーインフレ
↓
↓← ← ← ←企業倒産←不良債権の顕在化←自由化と私有化←虚偽の信用
↓
経済停滞・年金生活者等の生活困窮→財政・金融政策による景気刺激→インフレ持続、不良債権滞留
■急進主義と漸進主義(スティグリッツ[2002])
IMF(≒アドバイザー)の急進主義――緊縮的財政・金融政策。為替レートの維持。
ハイパーインフレの鎮静には役立ったが、経済改革と成長には失敗
これまでのところ漸進主義路線の方が経済成長に寄与している
中国、ポーランド(当初は急進主義)、ハンガリー、ベトナム。
急進主義の根拠:アドバイザーの「縫い目のない織物」論
市場経済の様々な要素の補完性→包括的改革が必要
理論上の経済制度+経済人(ホモ・エコノミクス)による理解
漸進主義の根拠
改革の政治的側面(テキスト109−112頁)
「痛み」により政治的支持がなくなれば改革そのものが不可能
自由な市場のためには独裁的な政治が必要?
制度の性格:取引を実際に行うものが慣れ、修正し、細部を仕上げ、習慣や文化で補うことによって機能する(丸川[1999])
競争→当事者(農民、企業、消費者)の活動先行→それにふさわしい制度改革
■中国の市場経済移行と経済開発
農業改革から先行させる
土地は私有化せず、請負制にして家族にインセンティブを与える→成功
資本蓄積
需要の拡大と労働力余剰の発生
郷鎮企業の生成
農村に様々な産業が興隆
需要に応えて市場を拡大
雇用拡大による余剰労働力の吸収
郷・鎮政府が出資しつつ、企業家が経営
国有企業の私有化は急がずに、競争と経営の自主性を拡大
例:鉄鋼価格の自由化(葉[2000])
国家計画価格
↓
双軌制(二重価格制)
国家割り当て生産分は固定価格(低価格で国家に納入)
ノルマ超過分は自主販売価格(需給に基づく)
↓
国家計画の引き上げ、範囲縮小、変動幅拡大
↓
全面的自由化
株式会社化と企業集団化
所有権の漸次的明確化――合併・買収による再編が可能に
授権経営による権利と責任の明確化
救済のための合併・買収→成長のための合併・買収
企業集団化
外資系企業を受け入れ、次第に出資比率制限を緩和。
世界第8位の直接投資受入国に。
私有(民営)企業の出現と成長(1990年代)
■中国の漸進主義的移行の特徴
問題解決・変化の追認による漸進主義(丸川[1999])
制度の一括導入が専攻するのではなく、競争と生産拡大、成長促進が起動力。経済活動の活発化とインフォーマルな経済組織の形成に押され、これを追認する形で制度変化が起きる(成長していれば「改革疲れ」は起きない)
→企業システムのインフォーマルな形成→追認
→「不足」から「過剰」へ→価格・取引自由化圧力→自由化
雇用の重視
政治的安定の重視
急速な民主化よりも安定を優先
先富論
■中国の移行上の問題点(黒田[2001]、中兼編[2000])
国有企業改革の不十分さ
過剰人員・過剰債務・過剰設備が残存する一方で失業問題が深刻化
地域・業種による格差
企業システムの現代化の遅れ
責任・権限明確化の限界
国有銀行の不良債権
地域間格差の拡大→西部大開発
ふくらむ財政負担
■小括
市場経済移行は、順序、タイミング、主体の能力が重要であり、したがって時間のかかる作業である。経済制度は教科書通りの形で実在しているわけではないし、経済主体は教科書通りの経済人(ホモ・エコノミクス)ではない。企業システムも金融制度も法律や政府決定で一夜にして導入できるものでもない。実際の経済活動を通して改良され、細部が仕上げられ、文化や習慣と結合して定着するのである。政治的環境も定着を左右する。そして制度の機能は、経済活動を通して能力を鍛えられた主体によってこそ有効に発揮されるのである。
<文献>
小野善康_誤解だらけの構造改革_日本経済新聞社_2001/12_
宮本憲一_現代資本主義と国家_岩波書店_1981_
伊東光晴_ケインズ:”新しい経済学”の誕生_岩波新書_1962/04_
伊東光晴・水田洋・浅野栄一・青木達彦_ケインズ_講談社学術文庫_1993/12_
秋元英一_アメリカ経済の歴史1492-1993_東京大学出版会_1995/02_
林敏彦_大恐慌のアメリカ_岩波新書_1988/09_
ジョセフ・E・スティグリッツ(鈴木主税訳)_世界を不幸にしたグローバリズムの正体_徳間書店_2002/05_
葉剛_中国鉄鋼業発展の構造変動_四谷ラウンド_2000/01_
丸川知雄_市場発生のダイナミクス:移行期の中国経済_アジア経済研究所_1999/04/20_
中兼和津次_現代中国の構造変動2経済:構造変動と市場化_東京大学出版会_2000/02_
黒田篤郎_メイド・イン・チャイナ_東洋経済新報社_2001/11_