更新:2002年6月10日
4-1. 本章の基本問題
本章では経済学における所有、特に市場経済における私的所有の意味について考察する。主流派経済学では、市場経済を機能させるためには私的所有権を確立することが決定的に重要だと考えられている。まず、それがなぜであるかを説明する。次に、これに対立する見解として、マルクス経済学の私的所有に対する批判の論理を紹介する。
続いて、コーポレート・ガバナンスに関する事例を通して、私的所有権と競争だけでは市場経済が機能するとは限らないことを示す。
4-2. 主流派経済における所有権
■市場経済にとっての所有権の重要性
経済システムはインセンティブ、つまり人を動機づける誘因がなければ機能しない。
市場経済において、人々にインセンティブを与える基本的なしくみは私的所有である。
所有権の二つの特性が、自分のコントロール下にある財産を効率的に使おうとするインセンティブを個人に与える。
所有者が自分の好きなように財産を使う権利
所有者が自分の好きなように財産を売る権利
■インセンティブを欠いた計画経済への批判
生産手段の社会的所有:実際には国家所有
生産物:国家の所有物
投資:国家の決定
経営成果に連動した報酬:不十分
企業経営者はイノベーションのリスクをとろうとしなかった(77頁)
旧ソ連における自然科学や軍事技術と民生技術のギャップ
■私的所有+競争による社会的な資源配分の最適化(78頁)
■共有地の悲劇
市場経済において私的所有権が明確でないとどのような問題が起こるか(ミルグロム&ロバーツ[1992/1997]第9章)。
海洋資源の乱獲の例
漁民は、自らの便益を追求する目的で資源を同時に利用することができる。
個人の活動に伴って発生する費用を当人に全額負担させることができない。
個人の活動に伴って発生する便益を当事者がすべて享受することもできない。
地下の石油層の例(『朝日新聞』1991年2月7日付)
鉱業権が適切に設定されないと、同一の油層に対して、多数の採掘業者が、他社がくみつくす前に自分が汲もうとして競争になる。
過当競争で採掘コストがあがり、資源が枯渇する。
湾岸戦争の際のイラクのクウェート批判
■私的所有権・競争・効率性
主流派経済学では、私的所有権を明確に設定することが、政府の役割として強調される。
私的所有権そのものは市場経済のもとで企業によって生産されるわけではないから、市場経済の外部から法的ルールとして設定されねばならない。
アドバイザーがこの章で主張していることは、この抽象理論の応用である。
取引を自由化し、私的所有権を明確にすれば、効率的な生産が行われるようになるだろう
※スティグリッツ[1999]47-49頁参照。
4-3. マルクス経済学における私的所有
以上のような主流派経済学、あるいは主流派経済学と大きく異なる私的所有論を主張するのがマルクス経済学である。
■マルクス経済学における私的所有批判(1)搾取と階級対立のシステム
マルクスは資本主義を、生産手段を私的に所有している資本家が、これを持たない労働者を搾取することによって成り立つ、階級対立のシステムだと考えた。
◇資本とは何か
主流派経済学:生産手段のストック
マルクス経済学:自己増殖する価値の運動体。
生産と交換を通して姿を変えながら同一性を保ちつつ増殖する
主流派経済学の分析基準:均衡
マルクス経済学:再生産と資本蓄積
◇マルクス経済学における資本の運動を示す範式
Pm
G−W ……P……W’−G’ →繰り返し
A
マルクス経済学では、価値は労働を投下することでつくられる。
G:企業活動に投下される貨幣資本
Pm:生産手段。設備や原料を含む。
A:労働力
P:PmとAが結びついて生産活動中の資本
価値を基準として W’>W、G’>G。
W’―W=G’−G=gが剰余価値であり、資本の増殖分であり、資本家の手に入る。より具体的な理論で競争によって変形されて利潤になる。
企業=価値の運動体
◇剰余価値(利潤)が生まれる根拠は何か
主流派経済学:完全競争のもとでは、生産要素に対する報酬は各要素の限界生産性に等しい(限界生産力説)。資本の貢献分に等しい利子、労働の貢献分に等しい賃金が払われる。
マルクス経済学:労働者しか価値を形成する労働を行えない(労働価値説)。
労働価値説をとる古典派経済学の難問(アダム・スミス、リカード)
労働者しか価値を形成しない
?
商品交換は等価交換である
(安く買い、高く売ることでは 資本家が剰余価値を取得
利潤は生まれない)
◇労働力商品
使えばそれ以上の価値を生み出す商品があればよい→労働力商品
前提:資本家と労働者の二階級モデル。生産手段はすべて資本家が持つ。
労働者は、自分の労働力を売って生産活動にかかわらないと生きる術がない。
時間決めの労働力使用権販売
労働力の価値(価格)決定
労働者当人が生き、再生産される水準が最低限度
生活必需品の価値
平均的な訓練費
平均的な扶養家族養育費
◇剰余価値の生成
労働力価値の1日分=x円とする
資本家はこの労働者を1日x円以上(たとえば3x)の価値を生むまではたらかせることができる(労働力商品の消費)。
「労働力を用いることで生産される価値」―「労働力の価値」=剰余価値
労働力を再生産する価値分は支払っているので、等価交換に違反しない。
こうして、市場経済の等価交換ルールと両立する形で、労働の搾取と剰余価値(利潤)の発生が説明される。これがマルクス経済学の剰余価値論である。
◇搾取と疎外
労働者は搾取に甘んじなければならない
生産物は自分のものではない(賃金で買い戻す)
生産過程では資本家の指揮・命令に服さねばならない
他の労働者との分業と協力のあり方も資本家の意志に従う
◇資本・賃労働関係の再生産
Pm
G−W ……P……W’−G’ →繰り返し
A
L(A) −(G)……A……G−W……L(A)
L(A):労働力を保持する労働者
A:労働過程(資本家にとっての生産過程)
◇抽象理論としての剰余価値論
主流派経済学と同様に抽象理論であり、そのまま現代の資本主義社会にあてはめることはできない。たとえば、賃金が生計費ぎりぎりに設定されるという理論などは、先進資本主義国では一般にはあてはまらない。
■マルクス経済学における私的所有批判(2)構造の自立
主流派経済学:私的所有者→自己利益追求→経済システム (主体→システム)
マルクス経済学:(色々な見解。以下私の賛成する解釈)
いったん資本と労働の再生産構造が確立すると、その構造が自立し、資本家は資本蓄積という与えられた役割を果たすように動機づけられる(システム→主体)
個人企業家の場合
大企業の場合――私的所有者のコントロールを離れていく
■マルクス主義の挫折とマルクス経済学の存在意義
社会主義への移行:挫折
マルクス経済学の独自の観点(詳しくは「政治経済学原理」で)
社会の階層構造的把握
長期動態的観点
※剰余価値生産の論理については、原典としてマルクス[1967/1983]、また柴田[2001]を参照。
4-4. 現実の市場経済における企業の所有権
■先進国経済の例
現実の市場経済における所有権の問題は単純ではない。ここではテキストと同様に、特に企業の所有権とコーポレート・ガバナンスについて考察する。
◇コーポレート・ガバナンス問題
株式会社における所有のインセンティブ機能
株主(所有者)の利潤追求→株式会社自体の利潤追求が建前。
株主総会で選出された経営者がこの役割を遂行。
株主支配の困難
機動的経営の必要性
株式分散
経営の専門的知識欠如
株式会社の意思決定は実際には誰によって、何を目的としてなされているか、それをどう評価するかという問題が生じる。これをコーポレート・ガバナンスという。以下主としてアメリカのケースに即してみてみよう(湯沢・谷口ほか[2000]などを参照)。
◇アメリカの経営者革命
バーリ&ミーンズによる大戦間期アメリカ巨大企業の研究(バーリ&ミーンズ[1932/1958])(79頁)。
経済力は少数の巨大企業に集中
その巨大企業の株式は分散して所有される
個人株主が過半数の株式を有して企業を支配(コントロール)することはまれ
少数の持ち株支配、会社による子会社の所有などの法的手段による支配、経営者による支配が増加。
第二次大戦後の機関投資家台頭
企業年金基金、銀行信託部による企業業績のモニタリング
経営には介入せずに、業績悪化時は「退出」を選ぶ(79頁)
こうして1970年代までは、アメリカでは株主の制約を受けずに経営者が企業の意思決定をおこなう経営者支配・経営者革命が進展した。
しかし1980年代以後になると、アドバイザーが紹介しているように、株主の立場から経営者を交代させたり、経営者の反対をおしきってでも企業の合併や買収を決定したりすることが盛んになった。これを株主反革命という。
<参考>
日本においては、1970年代以降、個人でも機関投資家でもなく、企業が互いに株主となって、企業集団内部で株式を持ち合うようになり、アメリカとは異なる形で経営者支配が実現した。これは「法人所有に基づく経営者支配」、法人資本主義などと呼ばれることがある(奥村[20002]。Web上のQ&Aその3も参照)。
経営者支配が生じると、経営者は株主の利潤追求とは別のことによって動機づけられる。
経営者自身の特権(2章参照)
企業自体の成長
1970-80年代には日本の持ち合いシステムが高く評価されたことも
◇経営者支配と経済学
経営者支配が投げかける主流派経済学への疑問
例1.仮に経営者支配で経済効率が十分に達成できるのであれば、私的所有によるインセンティブが市場経済を機能させる大前提だという理論は効力を失う。
例2.経営者が株主のコントロールから解放されたことを利用して、企業が様々な利害関係者(ステークホルダー)、すなわち債権者、従業員、取引先、消費者、地域社会などの利害を考慮した行動をとるように制度的に誘導すべきだという考え
主流派経済学からみた経営者支配批判――80年代以後のアメリカ、90年代以後の日本
株主にコントロールされない経営者が非効率を生む
個人的特権
見込みのない事業へののめり込み
→株主支配の回復が課題に
企業合併・買収は株主主導権と効率性を回復するか
短期的には利益が計上されても、設備投資や事業育成がおろそかにされ、長期的には効率が悪化するケースも
レバレッジド・バイアウト
証券市場の公正性の問題――エンロン疑惑
ステークホルダー資本主義論の浸透と限界
企業の社会的責任論。企業市民論。
マイノリティの利益の考慮、セクシャル・ハラスメント問題、環境保全、地域経済向けの投資・貸付、企業メセナ
利潤追求原理を大きく制限するようなステークホルダー関与は大きな潮流ではない
株式会社は教科書的な市場経済のたてまえにのっとり株主の利益に従うべきか、企業自体の長期的成長を重視して経営者支配を容認すべきか、ステークホルダーの利害にも配慮すべきなのか、またそれぞれはどこまで現実に可能なのか。主流派経済学は株主の所有権をもっぱら主張する傾向にあるが、現実的な政策のレベルでは、唯一の回答はないといってよいだろう。
■現実の市場経済における企業の所有権(2)移行経済
◇移行経済における私有化の方法
譲度型
現在の労働者への譲度
国民一般への譲度
自生的私有化
売却型
国内投資家への売却
外国投資家を含む売却
◇譲度型の特徴 (売却型はこの逆)
急速な私有化、所有権の形式的設定が可能
資産評価の手間を省ける
経営再建以前でもできる
政治的・社会心理的に支持されやすい
過去、共産党が資産を不正に奪ったという意識
国民にとっては譲度型なら財産が増える
計画経済に既得権益を持つ勢力の排除
買い取る側に資金が不要
上記の特徴は裏返せば弱点に
私有化後の企業が資産評価も経営再建も行う。
経営を監督できる有力な所有者(株主)がいない。
政府にも当該企業にも資金は投入されない。
◇ロシアにおける私有化(西村[2001]、スティグリッツ[2002])
当初1994年までは譲度型のバウチャー私有化がおこなわれた。
額面1万ルーブリのバウチャーを全市民に無償提供し、これを用いたオークションで私有化を進める。
結果としては当該企業従業員のインサイダー・コントロールに
企業従業員と管理部職員への優遇措置
企業管理者が合法・非合法のあらゆるツールを使って自分の属する企業の株式を自己の下に集積
経済格差の発生(82頁)
一部の優良国有企業、たとえば資源関連国有企業の従業員は巨大な富を獲得。
国家機関勤務者や衰退産業企業従業員は失職。
インサイダー・コントロール
企業経営者の独裁
企業管理者は外部株主や政府の影響力を排除
従業員株主は、解雇の脅威が蔓延する状況では、モニタリングを行えず
経営者は企業資産を自分の家族がつくった私企業に安く売却したり、企業資金を内外の個人の口座に振り込むなど、企業成長ではなく個人利益を追求。
1997年まで現金売却に基づく第2段階の私有化。
95年、モスクワの大銀行が、国家保有株を担保とした融資を行うことによって、財政赤字をファイナンスすることを申し出た。
融資は返済されず、強力な金融グループが有力企業の株式を入手することになったが、この過程はきわめて不透明であった。
◇ハンガリーの私有化(西村[2001])
1980年代半ばに社会主義政権自らが私有化に道をひらいた――経済改革の教訓
利潤最大化をめざす主体が必要。それは労働者による企業管理ではうまくいかない
売却型の選択――公開売りだし、入札、個別的販売
対外累積債務の返済
インサイダー・コントロールの回避
外資による私有化が払込資本の3分の1に
技術移転効果→輸出主導の成長
累積債務の軽減
企業グループの形成
持ち合いと親会社・子会社関係
問題点
数百社しか売却できず
外資企業の部材輸入、利潤送金・技術サービス料が経常収支赤字要因に。
4-5. まとめ:私的所有のインセンティブは万能ではない
今日、確かに私的所有というインセンティブを考慮しなければ理解できないことも多い。
株主利益をまったく無視したコーポレート・ガバナンスは成り立たない
移行経済における私有企業の創出
先進国経済におけるベンチャー企業の育成
一方で、私的所有権を保証し、市場を自由化すれば効率的な結果が得られるか、あるいはイノベーションと経済が実現するか、というと疑わしい。
企業、特に大企業のコーポレート・ガバナンスは私的所有を強調するだけでは理解も政策的対処も不可能である。企業システムが確立している先進国経済では、株主利益以外の目標を企業が追求しているのではないか、またそれがある程度現実的な選択肢や、より望ましい選択肢なのではないか、ということが問われている。企業システムを確立しようとしている移行経済では、単に私的所有者を定めれば効率的な経営が保証されるものではないことを現実が示している。市場経済を前提しても、企業という存在は私的所有のみによってはコントロールできないのではないか。これは経済学上の大きな問題であり、理論的にも実証的にも研究が必要である。
<参考>
カール・マルクス(資本論翻訳委員会訳)_資本論(第2分冊)_新日本出版社_1983_原著1867年。
柴田信也(編著)_政治経済学の原理と展開_創風社_2001/09_
アドルフ・A・バーリ/ガーディナー・C・ミーンズ(北島忠男訳)_近代株式会社と私有財産_文雅堂_1958_原書1932年
ポール・ミルグロム&ジョン・ロバーツ(奥野正寛・伊藤秀史・今井晴雄・西村理・八木甫訳)_組織の経済学_NTT出版_1997/11_原著1992年発行。
マリー・ラヴィーニュ(栖原学訳)_移行の経済学:社会主義経済から市場経済へ_日本評論社_2001/04_原書第2版、1999年発行。
ジョセフ・E・スティグリッツ(藪下史郎・秋山太郎・金子能宏・木立力・清野一治訳)_入門経済学 第2版_東洋経済新報社_1999/04_原書1997年。
ジョセフ・E・スティグリッツ(鈴木主税訳)_世界を不幸にしたグローバリズムの正体_徳間書店_2002/05_
西村可明_旧ソ連・東欧における市場経済化の経験:ヴィエトナムへの示唆を探る −私有化を中心として−(『ヴィエトナム国市場経済化支援計画策定調査第3フェーズ最終報告書第5巻
国営企業改革・民間セクター振興』)_国際協力事業団・ヴィエトナム社会主義共和国計画投資省_2001/03_
湯沢威・谷口明丈・福應健・橘川武郎_エレメンタル経営史_英創社_2000/05_第5、9、13章。
奥村宏_株式会社はどこへ行く:株主資本主義批判_岩波書店_2000/08_