経済学入門A優秀レポート紹介のページ


最終更新日:2001621

 

 経済学入門Aの小レポートにおいてA評価を得た7本のレポートを以下に掲載する。学籍番号・氏名は伏せてある。いずれもテーマ1(『アダム・スミス、モスクワへ行く』を読む)についてA相当の評価を与え、レポートによっては問題2(5月までの講義への感想、意見、質問)についても高い評価を与えた。以下、テーマ1についてコメントする。

 これらのレポートの形式面での特徴は、第1に起承転結がしっかりしており、叙述が論理的なことである。表現も、いわばカタギの大人の文章である。第2に、自らの問題意識を持ち、それとテキストの主張を照らし合わせながら分析的に考察を進め、一定の結論を得ていることである。問題意識が感じられて主張のあるレポートはほかにもあり、いずれもBの評価を得ているが、主張が一方的でなく、首相とアドバイザーの討論から得られる示唆によって自分の主張を深めていることがA評価につながっている。

 また内容面での特徴は、市場経済が自由放任のもとでは機能しないことに注目したものが多い。また、テキストに描かれる体制移行の困難を、現在の日本における構造改革問題とパラレルにとらえるレポートもある。そしていずれの場合でも、従来、自分が持っていた市場経済のイメージの単純さに気づき、これをリアルなものに変えていこうという知的努力がなされている。こうした思索こそが著者たちの望んだものであろう。分析内容や政策的方向性はレポートによって異なり、また教官自身もそれぞれに対して意見がある。しかし、ここで大事なことは、この主張は正しい、間違っているというようなことではない。書物との対話を通じて自分の社会認識を深めていくという、大学生にふさわしい勉強に足を踏み出したということである。レポートの執筆者たちはこのことを誇っていいし、他の受講生諸君もその重要性を考えてみて欲しい。

 なお、論理的にしっかりしていることを高く評価したレポートと、多少のほころびはあっても問題意識が鋭いことを高く評価したレポートがあることを付け加えておく。

 

■例1

1、「アダム・スミス、モスクワへ行く」について

アドバイザーは、「見えざる手」の力を信頼しすぎているのではないか、というのが私の抱いた感想である。

 確かに、資本主義社会においては、ある意味「見えざる手」の働きによって、資源配分や価格調整などが効率的になされ、市場は機能している。しかし、だから完全に放置しておいていい、という思想に私は賛成できない。

 私には、この「見えざる手」の働きに任せるということが、弱者切り捨ての社会を生み出すように思える。競争が激化すれば、残るのは効率化を推し進めることができる大きな企業のみで、競争力を持たない小規模の店は、次々と姿を消していくことになるのではないだろうか。理論としては、それは最終的に、理想的な、効率を追求した社会を形成するだろう。しかし、実際の姿は、駆逐された多くの弱者の上で、一部の経営者達に権力の集中する、偏ったものなのではないだろうか。それは、国の計画経済の下に生活することと、ある意味において同義なものに見える。

 そういった権力集中、これも大きな問題の一つではあるが、深刻に捉えるべきであるのは弱者の保護についてではないだろうか。計画経済下において保護されてきた社会的弱者たちは、改革の下、資本主義の中に置かれた時に、果たして為されるべき処置を受けられるのだろうか。「見えざる手」は、それを行うだろうか。

 アドバイザーは、「貧困な人々を求める需要が、政府によってつくりだされることを恐れている」と述べている。政府が社会的セーフティ・ネットを用意することが、それを受ける人間を必要とするために、本来はそれを受ける必要のない人々を貧困に追い込む。しかし、先に述べたように、私には、資本主義という社会というものには、弱者の存在が伴っているように思われる。弱者を伴う社会において、セーフティ・ネットを用意する機関が存在しなかったら、そこには非常に悲惨な口径が広がることになるのではないだろうか。

 弱者への救済措置は必要であると思う。そして、そういった点から、政府の干渉が必要であるとも言えると思う。

 

 また、改革の方針についてだが、長期的な視野でその国を見、ラディカルな改革を推し進めようとするのも、ある点では受け入れられるが、同様の理由から、私は漸進的な改革の方がよいのではないかと考える。

 中国的な漸進的改革を進められるのならば、その方が、民衆側にとっても、いいものであるだろう。ラディカルな改革の一番の問題点は、それが生み出す痛みである。アドバイザーは、長期的な視野からすれば、確かによいといえる改革を訴えているのかもしれない。しかし、急激な変革は、社会に、より激しい混乱を起こす。ハイパーインフレーション、高失業率、巨額の財政赤字。改革とともに展開されるこれらの問題に関して重要なことは、それに苦しむ人々の存在があるということである。苦しむ人々の姿があるからこそ、改革は簡潔に、いち早く行わなければならないという考えもあるだろう。だが、その激しい痛みは簡潔に、いち早く行わなければならないという考えもあるだろう。だが、その激しい痛みが明日の安定につながるという保証はない。私は、すべての国に同じ経済の理論が通じるとは思わない。確実な改革の方法があるとも思わない。ラディカルな改革が、もしその国に合わない改革法だったら、取り返しのつかないことになるのではないか、と考えるのだ。

 

 漸進的な改革には、アドバイザーが言うように、段階的に行うがゆえの負の要素がある。しかし、改革を急進的に、「見えざる手」に任せるままに行うのは、予測することの困難な市場に生きる者としては、危険な賭けであるようにも見える。

 確かに、改革は、それ自体がある種の賭けであり、困難という痛みなしに成し遂げる事のできないものだろう。だが、できることならば、痛みのリスクがより少ないと思える方を支持したい。

 「見えざる手」の存在は、あるように感じられても、本当に任せきれる存在なのかどうか、私の目では見ることは出来ない。

 

2、講義への感想(質問)

 レジュメ2を使っての講義の中で、計画経済からの移行期間における、自由貿易との関わりについて説明があった際に「国内の企業の保護をしなくても、自由貿易の中では、バランスの取れた結果に落ち着く」といった表現があったのですが、この表現の意味がよく解りません。

 計画経済から資本主義経済への移行が進む段階では、市場に大きな混乱が起きているということもありますし、元計画経済圏の企業は、その設備にしてもその産業上のノウハウにしても、資本主義圏の企業に勝る点を見つけるのは困難でしょう。そのような状況では、自由貿易の中で、非常に弱い立場にたつことになるのは否めないと思われますし、その結果として、競争に敗れて倒産ということになったり、資本主義圏の企業による吸収が行われたり、ということが起こるのではないでしょうか。それは、その国の、国家としての立場をも弱体化させることを意味しているのではないでしょうか。それはバランスのとれた結果には思えませんし、政府が国内企業の保護をしなくてもよい、といえるような状況を生むものではないように思います。

 なぜ、自由貿易の中では国内企業の保護をしなくてもよい、といえるのでしょうか。それともこれは、私が見る点とは異なったことを問題としているのでしょうか。よろしければ補足をお願いします。

 

■例2

テーマ1

 「アダム・スミス、モスクワへ行く」を通読して、私は今まで自分が市場経済については過大評価をしすぎ、計画経済に関しては過小評価しすぎていたことに気がついた。中学・高校までの学習では、私は市場経済こそが最もすばらしい経済政策であり、計画経済のすべてを否定すべきだという、偏見にも似た感情を抱いていたのだ。しかしながら、テキストの中での首相とアドバイザーの討論を見ていると、計画経済のすべてを否定することなどできないということと、市場経済のすべてが必ずしも正しくないし、それを西欧の資本主義国が東欧の社会主義国に「資本主義とはこういうものだ」と無理に押し付けるべきでものでないと感じた。

 私はこのレポートを、市場主義の支持者である「アドバイザー」に対しての私の反論を中心に書き上げたいと思う。

 第一日目で「同じ決まりきった経済の鉄の法則が存在し、またその地域の重苦しい歴史や文化、伝統的制度をひとりでに克服し、ひとりでに自由主義が発達する」といっているが私には必ずしもそうなるとは考えられない。アメリカやイギリスといった資本主義が長い歴史のなかで自然発生的に起こり発達してきた国で考えられた法則が、計画経済から市場経済に移行しようとしている東欧諸国家に通用するとは考えられないからだ。

 もしも本当に経済学の鉄の法則が存在すると仮定すると、テキストに登場するアドバイザーのような、その法則を研究する経済学者の助言を受けた市場経済に移行しようとしているすべての国が何一つ問題を抱えることなくスムーズに経済移行を成し遂げ、アメリカやドイツのように経済発展することができるはずである。しかし、現実はどうだろう。例として助教授が授業でおっしゃったモンゴルの経済移行を挙げてみよう。モンゴルでは市場経済に移行する準備ができずに、いきなり計画経済から市場経済化が行われたため、国家による買上げがなくなり、教育・医療サービスが進まず、輸送システムが人口密度の低さ、国土の広さ等の原因によってうまく機能しなかった。そのため民営化が進むどころか、国民の福祉の低下を招き、計画経済を採用しているときにはなかった「食べられない」という問題が起こってしまった。つまり、旧システムに問題があったからといって、そのシステムを急激に破壊し、自由放任することがかえって健全な市場経済が生まれなくなる原因となってしまうのだ。この例を考えても同じ決まりきった経済の法則がすべての地域にあてはまるとは言うのは難しいことがわかる。

 確かに市場経済には多くの欠陥があり、市場経済の考えを導入しなくてはいけないということは私自身百も承知であり、アドバイザーの自由主義的考え方を否定するつもりはない。しかしながら、完全なレッセ・フェールがひとりでにその国の伝統や制度・ローカルな事情を無視して、ひとりでに自由主義が発達するとは考えにくいだろう。

 もうひとつ私が疑問に思うのは、第6日にあるような、「政府の存在」に対するアドバイザーの考え方だ。信頼できて、確実性があり、安全であるという評判がその商品の価値を高め、生産者自信の利益につながるという理由で、市場がどんな政府の規律よりも消費者を保護するのに役立つというアドバイザーの考え方は理にかなっているように見えるが、私は賛同できない。すべてにおいて何が安全で、何が優れた商品であるかを見抜くことは消費者にとっては至難の業であり、生産者の虚偽の言葉にだまされるなどして消費者が損害をこうむる可能性はあまりに大きい。テキストにあるように、人々の健康や生命がかかわる問題では「選択の自由」はロシアンルーレットで選ぶような自由と等しいはずである。

 完全なレッセ・フェールにおいては生産者が自分の利益のみを考えるため他者の利益をあまり考えず、製品の安全性・確実性を欠いてしまう可能性が大きく、それを事前に防ぐためにはやはり政府の規制という牽制が必要なのだろう。

 私は今まで資本主義こそが完璧な経済システムであり、計画経済よりも圧倒的に優れていると考えていたが、テキストを通読してその考えはかなり変わった。もちろん資本主義が間違っているとは言わない。現に社会主義から資本主義に移行したことで経済的に急成長を成し遂げた国家(例えば中国など)もある。ただ、そういった国が成長できたのは、その国がその国の実情にあった経済システムを創造し、実行したことが理由として大きいことは明らかである。授業で助教授が「完全なレッセ・フェールも完全な計画経済も存在しない。どのような混合経済をつくるかが重要である」とおっしゃったのはまったくそのとおりだと思った。完全なレッセ・フェールは自分自身の利益を追求してしまうために消費者保護をおろそかにしてしまい、計画経済は無気力さが品質向上心を減退させ、消費者に利益の向上をもたらさない。

 私はこの「アダム・スミス、モスクワへ行く」を読んで、市場経済と計画経済両方のよいところも悪いところも知ることが出来たと思う。このテキストから学んだ知識を生かして今後の授業で最も有効な混合政策は何かを模索していきたい。

 

テーマ2

 経済学入門Aを受講して第一に私が感じたことは、助教授が決して市場主義がどんなにすばらしいかをまったく述べないことだった。中学での公民や、高校での政治・経済の授業では教師は「市場経済こそが経済活動を活性化させる理想的な経済政策である一方、計画経済は人々の生産意欲を欠落させ、経済を破綻させる政策である」と私達に教えながらも、それがいったいなぜなのかは教えてくれなかったし、前者に関しては肯定的なことを、後者に関しては否定的なことだけしか言わなかったと記憶している。

 経済学入門Aでは市場経済の立場をとるアドバイザーと、元・社会主義国の首相、そして、どちら側でもなく、いわば中立の立場としての助教授と、3者の意見を聞けることが私には大変興味深い。なぜなら、それらの意見は確かに合理的でもっともな意見のように思われるからだ。どれが正しく、どれが誤りなのか簡単には結論が出せない。私は中学・高校を通じては「計画経済」「市場経済」をただの単語としてしか覚えてはいなかったが、この講義を受講してそれらの単語のもっと深い意味を学習し、いろいろな経済システムに関して考察を深めていきたい。

 最後に、講義に関して質問をしたいと思う。レジュメ2の3ページ、テキスト49ページに「ソフトな予算制約」の問題があるのだが、政府が企業に対して救済措置をとることが問題とされるが、政府はなぜ問題があるにもかかわらず企業に救済措置をとるのだろうか?何らかのメリットがそこにはあるはずなのだが、それはいったい何なのか私は疑問である。

 

■例3

1 「アダムスミス、モスクワへ行く」を読んで

 社会主義経済から資本主義経済への移行は大変な作業である。「仕事とは何か」と言う問題を根幹から覆す必要があるからだ。社会主義経済では、仕事は上から与えられるもので、この下で人々は「公」のために働く。一方資本主義経済では、仕事は自分で探すものであり、人々は「自分」のために働く。この違いが、両社の進展に大きく関わったものと思われる。果たして、社会主義経済の弊害とは何なのか?を挙げてみたい。

 私有財産を認めない社会主義国家では、全ての企業や資源は国有となる。このため経済活動全般を国が取り仕切り、資源の調達から商品の製造、販売までを請負う。国は綿密なミクロの計算の上に、ある商品の需要を予測し、決まった数だけそれを作らせる。商品の数が限られている簡素な経済なら、このシステムは成り立つかもしれないが、現代は何億という商品が出回っている社会である。その商品一々に需要の予測を立てるのは不可能といってよく、商品の在庫が大量に出ることは避けられない。資本主義経済では、商品の在庫を出すことは、企業の損失となるので、企業は在庫を出さないような効率的な経営を迫られるだろう。社会主義では、この責任は国という主体のはっきりしないものへ転嫁されるだけである。企業は、競争もなく、ただ政府から与えられた仕事をこなせばいいので、効率的経営に切り替える必要もない。このように社会主義経済を一言で言い表せば「非効率」につきるのである。すべての人々に平等に資源を分け与え、幸福をもたらすと考えられた社会主義経済であるが、人は「公」より「自分」のために過酷な労働に耐えることができ、より良い製品をつくれるようである。また資源の配分は、人の主観的な操作よりも、市場経済における「神の見えざる手」にゆだねた方が上手くいくようである。市場経済においては、需要と供給によって価格が決まり、自然とそれを欲しいと思う人の所へ商品が流れていくようになる。この価格の変動こそが神の手によって行われるのである。企業側はもちろん利益をあげることが目的なわけだが、多くの消費者に商品を買ってもらうことが利益につながるわけで、企業の利益追求が多くの人々に商品の利便性を届けて幸福をもたらすのである。

 このように社会主義経済の欠点は明らかなのだが、どのように資本主義経済へと変換すればいいか?まず問題になるのは価格統制解除、供給過小に伴うインフレーションである。これらは市場が未熟なために起こる問題であろう。やはり、様々な私有企業が興りお互いに競争関係をつくらねばならない。それではどのように私有化するのか?大きく分けて2つである。一つには上からの「私有化」である。これは証券などの形で国営企業の経営権を国民に譲渡することである。一度自由化されれば、最も効率よく経営できる人間の下に経営権が落ち着くというのがこの本のアドバイザーの意見である。二つ目には下からの私有化である。つまり新しい企業が興るのを支援することであり、政府には私有企業を妨害する官僚的な障壁を取り除くことが求められる。このように徐々にではあるが、確実に市場を発展させていく必要がある。ここで、一部の人間が特権化し、市場を独占し競争相手を排除するようになってはならない。もちろん、この移行は相当の痛みを伴うものである。上に述べたインフレに加え、失業率の増加など様々なマイナスポイントがあり政治問題にも波及するかもしれない。経済的に見れば、この痛みはしょうがないもので、長期的に見れば必ず好転するといえるのだが、既得権益を守ろうとする政治家が痛みに耐えかねた国民の声をくみ上げて社会主義政党が復権しつつある国もあるという。このように改革が中途で終わることのないように、アドバイザーは改革は速やかにかつ包括的に行うべきだといっている。ばらばらのアプローチではシステムはうまく機能しないのだ。このビック・バンを行うには政治諸勢力、国民の協力、理解が必要である。

このように旧来の社会主義体制は、現代では上手く機能しないことは明らかである。ところが、社会主義から資本主義への移行は、経済的問題に加え、政治的問題も存在し、決して容易ではない。しかし、これは社会主義国家が必ずや取り組まねばならない課題である。これに伴う痛みは、我々の構造改革に伴うそれの比ではないかもしれないが、人々の理解を呼びかけたい。

 

2 これまでの授業の感想

私は、実を言うと再履修で経済学入門Aは二回目です。2セメの授業は、複雑の数式や理論的なことが多くてはっきり言って退屈でした。今セメの授業では、ソビエトの社会主義から資本主義への転換という具体的モデルについて検証していく方法をとっているので興味はそそられます。私は経済の理論や現代経済の仕組みに特別に興味をそそられる人間ではありません。むしろ歴史の中で経済が果たした役割や、国際経済などに興味を持っています。このため、あれほど全世界から注目された社会主義体制がわずか50年の内に崩壊したかを考える上でも先生の授業は貴重です。国際経済も、そこから世界の様子、国際関係などが見えてくる点に惹かれます。教授は中国やベトナムの工業について研究をされているようですが、ぜひそちらのほうも授業で聞きたいと思っています。経済といっても、「需要が何だ?供給が何だ?」とそこだけの理論となってはおもしろくありません。やはり歴史、世界といったものにリンクした総合的な学習をしたいです。

 

■例4

1、テキストについての論評、感想

計画経済の失敗とそこからの市場経済への移行のプロセスとその過程で発生する諸問題とその対処法とを改革の難題に直面する旧社会主義国の首相と西側自由主義国のアドバイザーの2者による対談を通して明らかにしてゆくこのテキストは、いちから新たな経済体制を構築してゆく道筋を示すことで、現代主流経済学の思想とその問題点を認識させてくれるもので、非常に興味深いものであった。そこで、それについて何点か挙げてみたいと思う。

まず第一に、アドバイザーの自由放任経済に対する手放しの礼賛ともいうべきものである。彼は、私的所有権と商法のような市場システムにおけるルールが確立すれば、生産者たちの意思決定は消費者の需要を満たすべく市場にコーディネイトされ、供給と需要は自然に均衡し、資源の効率的な配分が行われるとしているが、これはむしろ逆の結果を招くのではないか。計画経済下にあった旧社会主義国の国民は市場経済へと移行したからといって、即座に適応できる訳もなく、いままでの制度やルールを喪失したために、彼らは行動の目安を失くし、他者依存型の選択行動をとるようになるのではないか。また、ただでさえ生産量の少ない消費財の生産者は価格統制の無いのをいいことに、需要の増大に目を付け、価格を何倍にでも吊り上げるのではないのか。さらに旧体制下での品不足のために人々は蓄積していた資金が一気に市場に出回れば、物価は高騰し、ハイパーインフレーションへとつながりかねない。結局、価格や収入の統制がないために一部の企業経営者が法外な資産を手に入れ、国民は困窮するという資源の悪しき一極集中がおきてしまう。体制移行期においてすべてを自由化するのは問題ではないか。

次に、アドバイザーが政府による市場介入に対してあまりに否定的な態度をとっているという点である。移行期における経済は食料品や住宅、衣料などをはじめとする生活必需品の価格が暴騰し、また相次ぐ工場の閉鎖による大量の失業者の発生は社会不安を増大させるため、何らかの一時的な福祉プログラムを立ち上げるという考えは妥当性をもつと思われるが、彼はそうした政策が福祉に依存的な「永続的な下層階級」を発生させる危険があるとして最低限の介入さえ却下し、政府による管理・統制は取り除き、やはり市場にゆだねよと主張するが、これが期待されるような結果をもたらすとは考えられない。まず、既得権益を持つ政治的諸勢力の利権争いを曲がりなりにも抑制してきた中央政府による統制がなくなることで、こうした諸集団は権力闘争を開始し、利権を奪い合うこととなり、そこで働く資源の分配原理は権力を基本としたものであり、このような市場原理に反するような状況下では適正な所得分配など行われるはずもなく、国民の生活状況の悪化はなかなか改善されない。そもそも体制移行期における政策とは単に所有権や市場ルールの確立だけでなく、新たな統治機構を整備するうえでの旧体制の諸勢力との対決や、一時的に悪化する社会情勢に対する治安維持、市場経済に適応できる人物の教育と訓練を含むものであり、こうした必要な政策を実行するためにも政府は市場介入を行うことが大事であり、問題は介入そのものではなく、その度合いと引き際である。

最後に、アドバイザーの主張する移行戦略としてのビッグバン・モデルに対する疑問である。彼はビッグバン(急進主義)の採用を求める理由としては、大衆の改革に伴う犠牲に対する忍耐が長続きしないこと、反改革勢力が結集し改革を妨害する隙を与えないようにすべきであること、そして経済システムは内的に一貫したものであるから、個々のばらばらな改革をするのではなく、一括した急進的アプローチこそが有効であること、を挙げているが、このようなやり方は形だけの移行に留まってしまう危険性がある。旧体制の「ソフトな予算制約」の下で経済活動を行ってきた人々と企業が市場経済になったからといって生産性や経営効率を高めようとするであろうか。すなわち、自己責任において生産、雇用、投資をおこなえる人間や企業をいちから育成しなくてはならないのであり、首相が言うように「コックがMBAになるには時間がかかり、企業家や革新者になるにはもっと時間がかかる」のである。また、生産力の未熟な移行国では競争力の強化や生活水準の安定のためにも所得の低下の回避や資本蓄積を高めることは必須であると思われる。そのため、政府が投資をある程度コントロールしたり、主要産業育成のための産業政策などを国内の市場経済の進展度を見ながら順序だてて行ってゆくべきではないだろうか。

以上が私なりの感想・論評である。アドバイザーを批判してばかりだが、首相の意見に対し賛成しているわけではない。彼の意見は時に皮肉に終始していたり、改革に伴うコストに対して及び腰になっているという印象を受けた。しかし、この2社の対論によって経済学の抱える諸問題を少しでも知ることができ、興味深いテキストであった。

 

2、講義への感想、意見、質問

講義の進め方についてだが、全体的には結構うまくやっているのではないか。例えば、講義内容やその講義を理解する上で必要となる概念や用語、実際の移行国の経済状況を示す図表を前もってWEBでレジュメとして配布しておくのは講義の概要がわかって便利であるし、講義の内容も平易であり、やや難解な概念が出てきても、その都度説明があって分かりやすい。しかしながら、一部不満を感じるところがある。2限目ということもあり、講義棟に生徒全員が集まるまで少し時間がかかってしまうのは仕方がないとは思うが、毎週、授業の開始時間が15分も遅れてしまっているのはどう考えても問題があり、改善する必要があると思う。今のところ授業時間の延長はないが、進度に遅れが生じ始めているのではないか。5分くらいなら各自何らかの事情があって遅れることもあると思うが、あまりに遅い連中は出来れば無視して講義を始めてもらえないだろうか。間に合うように来るか来ないかは自己責任の問題である。

また、講義内容がやや用語説明や各事例ごとの説明に終始しているようで、いまいち「政治経済学」というものを体系的に学べているのか疑問である。「入門」なのだからそれも仕方ないかもしれないが、もう少し踏み込んだ内容にしてもらえないだろうか。ただ経済学関係の書物を読んでいるだけでは知識がついたかどうか不安である。教官は様々な研究などを通して体系的な知識を身に付けているだろうから、それをもっと前面に押出してくれてもよいのではないか。教官の個人的な解釈だとしても、生徒はそれをただ鵜呑みにするわけではないであろうから、やったとしても悪い結果につながることはないと思う。

検討をお願いします。

 

■例5

経済学入門Aレポート

1、感想

経済学入門Aのテキスト「アダム・スミス、モスクワへ行く」を読んで、最初に思ったことは、アドバイザーはなぜここまで急進的に計画経済から市場経済へと移行させようとするのかということであった。アドバイザーは、「漸進的改革は一歩前進、二歩後退」というように、漸進的改革が改革における苦痛をもたらすと言っている。果たしてそうなのだろうか。国によって文化や習慣が違うので同じプロセスは踏んでいないが、中国やロシアなどの例を挙げてみるとわかりやすい。中国はまず農地改革から始めた。農業生産の集団責任制を個人責任制にし、個人が自由に土地を売買することはできなかったが、民営化を実施した。そのため、生産物を売って大きな利益をあげることができた。また、歪められた価格を市場価格に移行させるプロセスにおいても、中国は独特の解決策を導入した。それは、企業が旧来のノルマ制で生産したものは旧来の価格をつけるが、旧来のノルマを超過した生産物にはすべて自由市場価格をつけるという二重価格制度である。こういった漸進的改革をおこなったため、中国の移行のプロセスは最小限の混乱ですみ、激しいインフレや、それに続く貯蓄の消滅が起こらなかった。そして現在では、ものすごいスピードで発展している。一方、ロシアの場合は、1992年にほとんどの物資の価格が、石油など一部の天然資源を除いて、一夜のうちに自由化された。当然インフレが起こり、貯蓄の価値がなくなった。そのため、民営化が認められ企業を買収できるロシア人がほとんどいなくなり、たとえ企業を買収できる財力があっても、高いインフレ率や金融制度の未発達を考えれば、買収した企業を再興することは困難となった。そして、自由化と安定性の失敗のために、健全な民営化ができなくなったのだ。現在では、自由化の過程で政府の誤った政策に乗じて富を得た者たちがいる一方で、中産階級の生活水準は低下し、貧困にあえぐ人々は急激に増加した。以上の2つの例やポーランドやハンガリーの例を考えると、ウサギと亀の競争はやはり亀の勝ちといわざるを得ない。よって、漸進的改革は、時間はかかるが、市場経済化の方法としては適しているといえる。

またこのテキストの内容で印象的だったのは、ソ連の崩壊を、20世紀後半を通じて進行していた、あるいはまもなく始まろうとしていた、経済的転換とリストラクチャリングのうちの1つとしていることだ。80年代のイギリスにおける、マーガレット・サッチャー首相による国有企業の民営化や、中国のケ小平による改革開放政策、ベトナムのドイモイなどもリストラクチャリングの1つである。またこれは現在の日本の構造改革、つまり特殊法人改革、郵政の民営化や規制緩和にも当てはまる。今盛んに叫ばれている特殊法人の民営化は、80年代のイギリスに酷似している。特殊法人改革とは、日本列島改造論を主張した田中角栄の政治、つまり利益誘導型の政治からの脱却である。今では考えられないことだが、昔はクリーニング屋、美容院、タバコ屋などが半径数百メートル内では1軒しか営業してはならないという規制もあった。また銀行などでは俗に護送船団方式などと呼ばれる規制などもある。小泉首相は、急進的改革を進めているが、これに異を唱え、前進的改革を提唱している経済学者もいる。よって、このテキストは現代の日本を考える上で重要な指針を提供してくれるかもしれない。

 

2、授業について

この授業は、経済学について何も知らない1年生にとって大変有意義である。このテキストは、経済学入門Bのテキストと異なり、経済学の基礎的な考え方や基礎的な用語の説明などが一切なく、いきなり計画経済から市場経済へと移行することが話題となっている。これは、基本事項を知らない者に、応用問題をしろといっているようなものだ。これが高校生に課せられていることなら問題であろう。しかしわれわれは大学生である。テキストにないことはわからない、教官が教えてくれないからわからないでは済まされない。大学生というものは、自ら主体的に、自分の知らないこと、テキストには載っていないことなど調べなければならない。それはインフラのないわれわれにとってこの上ないことだ。そういう点で、この授業のテキストは有意義だ。また、授業中に配られる参考資料や図表などが授業やテキストの理解の助けになっている。具体例の乏しいテキストでは納得のいかなかったことが参考資料や図表のおかげで納得のいくものとなる。

 

■例6

経済学入門Aレポート

1.「アダム・スミス、モスクワへ行く」を読む

社会主義経済国家の体制とは基本的に資本主義経済国家と異なり、指導者や官僚によるトップダウンの計画経済国家であると思います。経済計画や国家体制の運営が緻密であり、かつ適切であれば、資本主義国家よりも目標に対する意志がスムーズに国民に浸透して、物事の達成がより容易になるでしょう。しかしながら、国家の意思と国民の意思の間にずれがあればたちまち頓挫してしまいます。国民が富の偏在のない、病気や老後、衣、食、住の保証された豊かな人生を送れる、そんなユートピアの建設を夢見て、熱き情熱を持って、互いに協調し、助け合いの精神で社会主義国家の建設に臨んだならば、これまでに実現することのできなかった素晴らしい国家となるでしょう。しかし、国民が、自分が生活に困らないだけの収入のために働き、ましてや生活の大部分を国家に頼るようになれば、社会主義国家としてのゆとりは生まれず、ついには破綻してしまうのです。国家を自分達で支え、より高く、持ち上げ続ける強固な意志を持つ国民にしか適さないのが社会主義国家だと私は感じています。また気候や地質などの自然環境が劣悪な地理的条件下の国家体制にあっては当然、生産活動が目標通りに行かないことも生じてきます。このような時にフィードバックのかかるシステムでなければならないのです。不調和や矛盾に対する解決策もシステムとして機能しなくてはなりません。こうしたことから考えてみれば、現時点においては、国土と、人民と、思想をかけた社会主義の壮大なドラマ、実験は挫折したと言わざるを得ません。性善説を前提とした目論見は崩れ去ったのです。

それならば、私達が資本主義国家体制の中にいて、救われた、幸せだと思うか、と言うことに関しては考えさせられることがあります。資本主義は利潤追求のシステムによって価格がシグナルとなって自動的にフィードバックがかかるように運営されています。ある物を必要とする人がたくさんに増えれば価格は高騰し、そこに利潤が生まれる素地ができ、生産者は増産して利潤を得ようとします。物が余れば逆に価格は下がり、利潤が無くなりますから生産者は減産します。このようにして社会主義国家とは異なり、不必要な物は作られないシステムになっています。この点は社会主義より遙かに優れていると思います。しかしながら、資本主義は利潤の無いところはおろそかになります。誰も利潤のない事業をやろうとはしないからです。市場化に対する討論において、また安定化についての議論の中で、市場システムにおいてはすべて利潤動機によって必要なものは手にはいるようになると主張するアドバイザーに対して、首相はペレストロイカ初期にロシアの病院で注射器を手に入れられなくなったことをあげていますが、利潤が無くても国家や国民に取って必要な事はたくさんあります。また個人レベルではできないこともあります。ボトムアップの体制と補完的に政府が税金を使ってトップダウン的な運営をしている部分とが共存しているのが資本主義国家だと思います。外交や教育、橋や港湾、道路の建設、社会秩序の維持等は個人レベルではできません。個人や民間部分が優先されているためにうまく機能していない事もあります。例えば現在では、狭い道路事情にも関わらず、個人や会社の需要要求に従い、生産され続ける自動車、道路は渋滞し、ガソリンは無駄に使われ、運送時間の増大、コストの上昇、排気ガスの健康への障害もそうですし、無計画に作り続ける個人住宅もそうでしょう。狭い道路の両側に家が造られ、そこの住人は自動車を乗り回して一層の混雑を引き起こしています。そして道路拡幅のために、税金を使い、立ち退きを実施して整合性を得ようとしています。こんな事も資本主義経済の身近に感じられる弊害では無いでしょうか。また人間の欲望や娯楽のために、競輪、競馬、マージャン、パチンコ、歓楽街等の存在が有り、資本主義国家の負の部分として大きな産業にさえなっています。狂牛病にかかった牛の処理の仕方、政府の買い上げ時に外国産の輸入肉までも申請したり、雪印乳業では出戻りの古い牛乳を混ぜてしまったりといった利潤追求のために道徳観もどこかへ行ってしまったのではないかと疑いたくなるような事件が相次いでいます。外務省や国会議員までもが不正を働くようになってしまっています。過度の私有財産の増大や利潤の追求が人々の心を狂わせていると私には思われるのです。そしてなによりも、資本主義がもたらす弊害の最大のものとして、富の偏在があり、裕福な人や企業は国家全体の財産のうち、多くの物を独占するようになってしまうのです。一部の資本家が多数の労働者を雇い、利潤を得、利潤の内から一部分を労働者に還元し、利益をさらに増幅し、貯えることによって富の偏在が引き起こされていくのです。そしてそれが子供にも引き継がれていくのです。その一方ではホームレスやストリートチルドレンを生みだし、社会の一員としての存在さえままならない人も顕在化しているのです。まさに弱肉強食の世界であると感じます。

資本主義は利潤を追求するため原材料を安く仕入れ、高く売るのが基本です。高く売られた物を仕入れて加工して売るときにはさらに高く売る様に行動します。これが巡り巡ると物価上昇となるため、常に資本主義経済は軽いインフレーションを内在したシステムだと思われます。従って、社会主義経済から資本主義経済への移行プロセスにおいて発生する、貯蓄による抑圧されたインフレーションの危機を乗り越えたとしても、資本主義経済における危機、ハイパーインフレーションを引き起こす危険性をはらんでいるのではないでしょうか。そもそも貨幣は本来、物としては何も価値が無いのです。貨幣としての価値を支えているのは別の誰かが貨幣によって物と交換してくれるからなのです。貨幣に対する信頼感なのです。貨幣が紙切れ同然になると予想されれば人々は一斉に貨幣としての価値の有るうちに使って、物と交換してしまおうとします。物の需要が一機に増大して、物価上昇を引き起こし、インフレが促進されます。だれもが貨幣を持つことをやめて、物物交換の優先されるハイパーインフレーションの状況になってしまいます。過去には第一次世界大戦後のドイツで、また日本でも第2次世界大戦後に起こっています。しかしこれは1国内の中央銀行の貨幣増発によって引き起こされた事であって、外国のもっと信頼感の有る通貨とリンクさえすればそれは止まってしまうのではないでしょうか。現在市場経済において本当のハイパーインフレーションの起こる危険性があるとするならば世界経済における基軸通貨のドルの暴落によって引き起こされると考えられるのではないでしょうか。ユーロ圏や日本をはじめとした世界の資本がアメリカから引き揚げていけばなり得るのです。まるでドル紙幣の大量増発と同じ現象が現れると考えられます。

私は、社会主義経済と資本主義経済は一長一短が有る様に思います。その資本主義経済の極論者であるアドバイザーと社会主義経済の極論者である首相との対談によって、社会主義経済から資本主義経済への移行プログラムにおける様々な問題点を取り上げ討論し、あえて結論を出さないこのテキストは経済学を学び始めたビギナーにとって、それぞれが疑問を持ち、それについて考えを深める良いきっかけを与えてくれたと思います。

 

2.5月までの講義への感想、意見、質問

経済学を学び始めたばかりの私にとって、この講義は非常に複雑で難しく感じられると言うことが、この講義を受けてみての率直な感想です。この「アダム・スミス、モスクワへ行く」のテキストでは社会主義経済から資本主義経済への移行に関しての様々な政策や問題点を取り上げているわけですが、このことを理解するに当たっては、まず、資本主義経済とはどういうものであるのか、また、社会主義経済とはどういうものであるかと言うことを基本的に認識していなければなりません。そして、社会主義経済の構造の問題点をふまえた上で、資本主義経済への転換の必要性、さらには資本主義経済の問題点までも認識していなければ、市場経済への具体的な移行プログラムを学び取る事はできないのではないかと考えます。このテキストにおいては社会主義極論者と資本主義極論者との対談によって、両極端の社会構造をあげ、すべての社会主義構造を資本主義に転換すべきであるというアドバイスがなされており、資本主義への移行が国家の経済的繁栄にとって不可欠であると言うことがよくわかりました。しかしながら実際の世界においては、資本主義構造と社会主義構造とが併存している場合が多く、また先の論評にも書きましたが、すべてが資本主義の社会構造にも問題があるのではないかと私自身は感じています。アドバイザーは移行経済には不可避的にコストを伴うと言っていました。社会主義経済の泥沼にいる国民にとって資本主義はより優れた社会システムに映ることでしょう。しかしその移行へのコストの大きさを体験し、さらには移行プログラムが挫折した時、国民はどうするのか、国家はどのような対応をするべきなのでしょうか。こういったことを予測することはほとんど不可能に近いと思いますが、首相がこのようなことを考えて、資本主義への移行に対して慎重になるのももっともではないかと思います。現在において資本主義経済の完璧なモデルは無く、それ故に何処へ向かっていくべきなのかは把握しにくく、またそれぞれの国によってスタートラインも異なるため、一様な移行プログラムが適切かと言うことに対しても問題が無いとは言い切れない部分があると思います。経済問題とは、経済だけに関して考えればよいと言うのではなく、地理的条件や政治的問題、環境問題などといった事柄が複雑に絡み合っていると考えているからです。しかしながら、経済体制の転換に関しての一般的な政策を学ぶことは、経済学を学び始めたばかりの私にとって必要不可欠ですし、大変意義のあることだと考えています。それは一般的な法則をわからずして、個々の事例には対処できないからです。従って、経済学入門の講義はまさにこれから経済学を学ぶ人にとっては大変有効なものであると確信しています。また、授業に関しての質問の回答をwebに掲載してくださったり、レジュメの配布などは私達受講者にとっては大変親切でわかりやすいものでありますし、また今回のパソコンを使ったレポート提出などもこれからの国際化する社会においては必要になってくるので、その練習としてもとても意義のあることだと思いました。

 

■例7

私はこの「アダム・スミス、モスクワへ行く―市場経済移行をめぐる対話劇―」を読み、市場経済の不完全さを感じずにはいられなかった。なぜならアドバイザーは市場経済への移行がどれだけの発展をもたらすものかを首相に説いても首相の考えは一向に“社会主義がだめだったから他に移行できるものがないので市場経済に移行しよう”的な考えが最後まで消えないからだ。そして我々日本のような、市場経済の恩恵を最も受けている国であってもその不完全さを取り除くことはできないし、今から市場経済に移行しようとする国の見本にすらなれない歯がゆさをどうしても感じてしまった。

一向に改善しない日本経済の改革の足並みを乱す抵抗勢力と、その改革に新風を吹き込む救世主として登場した小泉首相は、この本の中の急進的な移行に反対し保守的な立場を貫く“首相”と、現行の体制からの脱却を説き楽観的な“アドバイザー”に私には非常にダブって見える。社会主義体制であった国が(本の中の国とはいえ)日本とダブって見えると言うのもおかしな話ではあるが、それこそがこの本の言わんとしていることなのではないか。政官業のもたれあいにより(公共事業を受注するような企業は特に)企業の主導権を政や官、その同業者団体が握り、市場経済の特徴とされる公正な競争が阻害され続けて、市場経済であるはずの国が半ば社会主義体制化している。そしてこのような国民にとって望ましくない状態になったのなら、市場経済のあるべき姿に民主主義を背景に改革すればいいのだがそれもうまくいかない。このような異常事態を著者たちは市場経済への移行を目指す国を使い、その矛盾を暴き出そうとしたのだろう。

そのようにして考えてみると、どうやらこの本のタイトル「アダム・スミス、モスクワへ行く―市場経済移行をめぐる対話劇―」の名の通りに計画経済の国が市場経済への転換を目指す指南役的な本なのではなく、計画経済から脱しようとする“東ヨーロッパのどこかの国”を使い、市場経済の問題点を提起し解決していくことを目的とした本のように思える。

しかしながらそれらの問題点を全て解消し、市場経済がうまく完全に機能するということは市場を支配する企業は欲と理性が完璧にバランスの取れたものであることを意味し、その市場に参入する側は欲にまみれたものであることをこの本では意味するようだ。そんな人間はきっと面白くもなんとも無いだろう。それなら、今のまま改革を目指しながらもちっとも進んでいかない状態は案外、理想の形なのかもしれない。

 

授業は非常に密度の濃い、いい授業だと思います。ただ、経済学入門Aという授業であるのだから、もう少しおもしろくて分かりやすい授業であってもいいとおもいます。今日の授業で、一番前の席の人が寝ていましたが、それだけ積極的に経済を勉強しようとする人(一番前に座ったからといって授業に対する積極性が高いかどうかを判断するのは難しいですが、やはり積極性の無い人ほど、後ろのほうに座ります)を寝させてしまう授業はやはり問題であると思います。前のほうに座る人が寝てしまうのだから、志望学部が経済ではなかったけれど経済学部に来た人にとっては非常に苦痛な授業であると思われます。そして特に経済学部は他の学部に比べほかの学部志望だった生徒の多い学部です。そのような生徒にいきなり経済学部の洗礼のパンチを浴びせるのではあまりに厳しいのではないでしょうか。

志望が経済ではなかった生徒ということは他のさらにレベルの高いところを狙うだけの能力を有しながらも試験で点数が伸びなかったという本来は非常に頭の良い生徒です。これらの生徒に経済というのは面白いものであり、奥の深いものなのだ、と教えていき、経済のエキスパートに育てていくことは日本の経済にとっても重要なことであると思われます。

 


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