第四章 歴史学方法論の問題系

第一節 大塚久雄の歴史学方法論


【日本と欧米、現在と歴史】

第二次世界大戦直後にあって、日本が進むべき進路として「自律による民主化&経済成長」、もっと精確にいえば「他者啓蒙による自律、自律による経済成長と民主化、経済成長による神(他者)への奉仕」とでも要約できるようなモデルを提示した大塚久雄。しかし、彼自身は、現状分析の専門家でもなく、日本経済の専門家でもなく、イギリスを中心とする欧米の経済の歴史を研究する西洋経済史学者だった。

もちろん、西洋経済史学者が日本の現状について発言してはならないという理由はないだろう。発言が高い水準に到達しているか否かは別として、日本では言論の自由が認められているし。あるいはまた、西洋経済の歴史を研究するなかから得られた知見をもとにして、日本経済の現状の専門家には思いもよらないような所説に至る、という事態だって、十分に考えられるだろう。

ただし、問題はそこにはない。大塚は、大学入学時には、日本経済史を専攻しようと考えていた。一九三〇年代には、ドイツで中小規模の農民がアドルフ・ヒトラーを支持するという現象に衝撃を受け、中産的生産者層の歴史を研究しはじめた。戦時中には、採るべき経済統制政策のあり方について、発言を続けた。かくのごとく、大塚には日本の現在に対する強い関心があった。しかし、それだったら、なぜ、日本の現在そのものを研究することなく、外国の歴史を研究するという迂回路を採ったのだろうか。

さらにいえば、外国の歴史から得られた知見を日本の現在に適応することは、そもそも可能なのだろうか。可能だとすれば、どんな手続きが必要なのだろうか。

本章では、こういった問題を考える。

まず、本節では、歴史を研究するにあたって採用されるべき手続き、つまり歴史学方法論に関する大塚の所説を確認しておきたい(本節全体について、ヴェーバー[一九九八]、向井[一九九七]を参照のこと)。

【問題関心から始める】

個人の自律や他者啓蒙を肯定し、その必要性を強調する大塚の発言は、様々な批判を受けてきた。また、中産的生産者層を社会変革の担い手とみなす点についても、批判が寄せられてきた。ただし、これらは、歴史学をなりわいとする大塚にとってみれば、さほどの痛手とはならなかったにちがいない。歴史学者にとって大切なのは、最終的には、具体的な史実の評価や解釈なのだから。実際、これら批判に大塚が正面から答えることはほとんどなかった。

ところが、じつは、すでに第二次世界大戦の前後から、まさにこの史実の評価や解釈をめぐり、歴史学者の手になる批判が現れていた。それも、中産的生産者層という、大塚の所説の核心に位置するテーマをめぐって。事態の深刻さを察知してか、大塚は積極的な応答を試み、そのなかで自らの歴史学方法論を提示することになる。

問題は、マニュファクチュアを経営する資本家の出自にあった。大塚は、中産的生産者層のなかの成功者がマニュファクチュアの経営を始め、さらには工場制度の成立を担うことになる、と主張した。ところが、イギリス史学者・矢口孝次郎は実際にマニュファクチュアの経営者の出自を調べ、じつは元商人が多かったという結論に達した(矢口[一九五二])。この史実は、大塚の所説と整合的に理解しうるのだろうか。

大塚は、マニュファクチュア経営者に元商人が多いという矢口の検討結果を全面的に肯定し、支持した。ただし、大塚にとっては、元商人と元中産的生産者層の比率のどちらが高いかは、さほど重要なことではない。彼が重視したのは、マニュファクチュア経営者に元中産的生産者層が「特徴的に」(著作集第九巻四八五頁)多いこと、つまり元中産的生産者層の比率が後発国や後進国よりも工業化の母国イギリスで高いことだった。ここから、大塚は、工業化を「構造的に推進する力」(著作集第九巻五〇〇頁)は中産的生産者層だったと結論する。

矢口はマニュファクチュア経営者における元中産的生産者層の比率を問題にし、大塚を批判した。しかし、大塚にとっては、この比率は自らの問題関心のそとにあり、その意味でどうでもよいことだった。世界ではじめてイギリスで工業化がおこった理由を問う彼にとっては、この比率が諸外国と比較してイギリスで高かったという史実こそが大切だったのである。

ここに、大塚の歴史学方法論が姿を現す。彼は、工業化の歴史という問題関心を設定し、あくまでもこの関心に沿って研究を進めるという方法を選択した。それゆえ、彼の分析にあっては、工業化の歴史にかかわりのある史実が、対象として選択される。あるいはまた、選択された諸々の史実は、工業化の歴史に即したかたちで解釈され、結びつけられ、あるいは評価される。逆に、問題関心とかかわりのない史実は捨象されることになる。イギリス経済史学者・米川伸一は、こんな大塚の方法を「発生史」と呼んだうえで、それを「歴史の一側面にだけ認識の意味を認めてその起源を問う」アプローチであると特徴づけている(米川[一九七二]一三五頁)。

【一般化する】

イギリスをはじめとする欧米の歴史から得られた知見をもとについて日本の現在を語るには、まずは前者の知見をひろく適用可能なかたちに抽象化しなければならない。この手続きは、一般化と呼ばれている。 清教徒革命を例にとって考えてみよう。日本の現在に関連させて語りたいのであれば、〈一六世紀のイギリスでピューリタンたちが革命を起こした〉という知見を得たからといって、それだけだったら〈だからなんなんだ〉といわれるだけだろう。この知見を抽象化し、ピューリタンが革命を起こした理由、ピューリタニズムと革命運動一般の関係、さらには宗教と政治運動の関係へと、考察を続けてゆくとき、はじめて日本の現在との接点がみえてくる。

大塚にとって、一般化という手続きの問題は、経済学と歴史学の関係として問われるべきものとしてたちあらわれた。

彼が学び、教育し、研究した経済史学は、経済学と歴史学の接点に位置する学問領域である。そして、歴史学の第一のしごとは、過去に生じた個々の史実の内容を確定することにある。経済学の第一のしごとは、複数の経済現象を同時に、そしてなるべく適切に説明することにある。哲学者ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの区分法に則していえば、歴史学は「個性記述科学」であり、経済学は「法則定立科学」である。したがって、両者が重なりあったところに位置する経済史学は、個々の史実を一般化するにはどうすればよいかという問題にとりくむことを、そもそもの定義からして義務付けられていた。そして、経済史学者たる大塚もまた。

大塚によれば、経済史学の基本は個々の史実を確定することにある。その点では、経済史学はどちらかといえば経済学よりも歴史学に近い。ただし、個々の史実を確定すればそれで万事終了というわけではない。今度は、複数の史実をくみあわせて一般化し、筋の通った歴史像を構築する、という作業が待っている。そして、その際には、経済学がつくりあげてきた理論がツールとして利用できる。

ただし、これは〈理論にもとづいて史実をくみあわせる〉および〈史実にもとづいて歴史像を構築する〉という一方通行の作業にとどまるものではない。史実にもとづかない理論はありえない以上、理論は史実にもとづいてチェックされ、必要とあれば修正される。また、構築された歴史像は史実に対するぼくらの理解に影響を与え、史実の確定作業をさらに前進させる。そのなかで、新たな史実が見出されるかもしれない。つまり、史実の確定と理論の構築、および史実の確定と歴史像の構築は、おのおの往復運動をなしながら進められるべき営みなのだ(以上、著作集第九巻二六三〜九頁を参照のこと)。

大塚においては、一般化によって構築される理論や歴史像は、決定的で確定的なものではなく、あくまでも暫定的で仮説的なものにとどまっている。ただし、そのかぎりにおいては、史実の一般化は可能であると考えられていた。

ちなみに、この手続きが適用されうるのは、なにも経済史学だけに限った話ではない。経済以外の領域を対象とする歴史学においても、理論や歴史像と史実との相互運動という営みを進めることは、十分に可能なはずだ。かくして、多くの歴史学者が、史実の一般化という課題にとりくむことになる。

【比較する】

イギリスの史実を一般化して得られた知見(理論、歴史像)をもとに日本の現在を論じるには、一般化という手続きだけでは、十分ではない。今度は、一般化によって得られた知見を日本の現実と比較するという手続きが必要になる。大塚は、この比較という手続きを重視しながら研究を進めた。

しかし、考えてみれば、なにも二国を比較しなくても、イギリスならイギリスの史実だけを分析していれば、研究としては十分だろう。なぜ、わざわざ比較に手を出さなければならないのだろうか。つまり、比較することのメリットとはなんだろうか。あるいはまた、大塚はイギリスの中近世と日本の二〇世紀を並べて論じたが、イギリスと日本では環境も歴史も言葉も違うし、中近世と二〇世紀のあいだには数百年の時間差がある。こんなに違う二つの対象を比較することは本当に可能なのだろうか。つまり、史実を比較することは可能なのだろうか。

まず、比較することのメリットについては、大塚は、そもそも「歴史家の方々は何かの形と程度で皆たえず比較をやっておられる。ただ意識しないままで、たえず比較をやっておられる」(著作集第一一巻五三頁)と皮肉ったうえで、比較によってはじめてみえてくるものがあることを強調した。

たとえば、中世ヨーロッパで農地を所有していた領主と農地を耕作していた農奴について、後者の数が減少すると両者の力関係はどうなるかを考えてみよう。ちょっと考えると、数が減ると存在が貴重になって交渉力が強くなるから、この場合、力関係は農奴に有利な方向に変化する、という気がする。たしかに、イギリスではこの事態が生じた。ところが、ドイツをみると、農奴の減少は、逆に領主の力を強化する方向に働いた。両国を比較すると、数が減ると存在が貴重になって交渉力が強くなるという論理は正しくないことがわかる。それではどう考えればよいか、ぼくらはまた頭をひねらなければならなくなる。

かくして、大塚によれば、比較することのメリットは「imagination(つまりimageをつくり出していく想像力)を歴史家たちの内面に豊かに生み出してくれる」(著作集第一一巻六八頁)ことにあった。

つぎに、史実を比較することの可能性に関しては、大塚は有名な「横倒しの世界史」という分析枠組みを考案した。

彼の直接的な関心は、第二次世界大戦後における開発途上国のあり方をどう理解するかにあった。開発途上国の多くはかつての植民地であり、旧宗主国をはじめとする先進国とのあいだで、モノカルチュア化に代表されるような独特な貿易関係をとりむすんでいる。ただし、その一方で、開発途上国には、先進国が遠い昔に備えていたような制度もみうけられる。大塚は、こんな特徴を持つ開発途上国と先進国がおりなす「現代社会のうちには、縦の世界史が、さまざまな、歴史的または地理的な要因による歪みを伴いながらも、いわば横倒しになって同時的に現れている」(著作集第九巻二〇八頁)と述べる。これは、「縦の世界史」と「歴史的または地理的な歪み」という二つの側面に留意しさえすれば、史実を比較することは可能である、という所説として理解することができる。

例によって、中近世のイギリスと日本の現代の比較という事例に即して考えておこう。両者のあいだには、数百年と数千キロメートルという時空間の違いをこえて、共通する要素があるはずだ。その一方で、時空間の違いから生じる、たがいに異なる要素もあるはずだ。二つの対象の異同を確定することができれば、両者の比較は可能になるだろう。逆にまた、異同を確定するためにも、比較という手続きは必要だろう。

かくして、大塚にあっては、比較という手続きは存在可能かつ有益なものとみなされる。彼が自ら率いる学派を「比較経済史学派」と呼んだのは、そのためだった。

【遺された問題】

大塚の歴史学方法論は、ある問題関心を選びとり、それに沿って史実を確定し、解釈し、結びあわせ、ついでそれらを一般化し、異同を区別しながら比較する、というものだった。こんな手続きを踏めば、イギリスをはじめとする欧米の歴史から得られた知見を、第二次世界大戦後という日本の現在に適用することができるのではないか、彼はそう考えた。

それでは、第二次世界大戦後の歴史学者は、大塚の歴史学方法論をどう評価したのだろうか。

第二節 歴史学方法論の戦後史

【歴史を総体的に把握する】

本節では、とくに大塚が専門としたイギリス史研究に即し、歴史学方法論のあり方という視角から、彼の研究に寄せられた批判をおさらいしておきたい(本節全体について、柴田・松浦編[一九七二]、近藤[一九九八]第一章を参照のこと)。

一九五〇年代に入ると、大塚が描きだすイギリス史像に対して、歴史学者の手になる全面的な批判が登場する。イギリス史学者・越智武臣によれば、一五世紀以来イギリスの政治や経済や文化を支配し、主導してきたのは、社会秩序において中産的生産者層の上位に位置する「ジェントルマン」あるいは「ジェントリー」と呼ばれる階層だった。大塚が重視した中産的生産者層はどう位置付けられるか、といえば、彼は「清教徒とよばれたもののなかには、来るべき資本主義の機種となっていった連中もあった。だが、順風に帆をあげた連中が、はたして清教徒と呼ばれたもののどれだけを占めたであろうか」(越智[一九六六]四三七頁)と述べ、彼(女)たちは工業化の過程で没落し、ほとんどは労働者や貧民になってゆくものとみなした。

大塚と越智の対立は、一見、史実や歴史像の正しさをめぐるもののようにみえる。ただし、大塚と矢口の論争(本章第一節で先述)を思いおこしながら、先の「順風に帆をあげた連中が、はたして清教徒と呼ばれたもののどれだけを占めたであろうか」という一文を読みかえすと、どうもそれだけではないという気がしてくる。

越智は、一五世紀から一七世紀に至るイギリスを「近代英国」と呼んだうえで、この時期の政治、経済、社会、文化、さらには宗教といった諸側面を研究の対象として選択する。そのうえで、彼は「それなくしては、近代英国とはみなしがたい造型要素のいくつかを、その起源と発生において、とりあげてみよう……。しかも、国民史というフレームのなかで、それら相互の脈絡と均衡のあり方をさぐってみよう」(越智[一九六六]一頁)と述べ、様々な側面の間の関係を確定し、それによって近代英国史の総体を描きだすことを課題として設定した。米川は、こんな越智のアプローチを「歴史の総体的把握」(米川[一九七二]一三五頁)と呼び、大塚の「発生史」的アプローチと対置している。

越智のように歴史を総体的に把握することをめざす場合は、史実のウェイトが問題になる。ウェイトが大きい史実が重要な史実であり、したがって史実のウェイトを確定することが重要な作業になるだろう。これに対して、発生史的アプローチは、史実を一面的に評価することにつながるとして、好ましくないと評価される。

中産的生産者層とマニュファクチュア経営者の関係に即して述べると、例の「順風に帆をあげた連中が、はたして清教徒と呼ばれたもののどれだけを占めたであろうか」という一文からもわかるとおり、越智にとっては「順風に帆をあげた連中」たるマニュファクチュア経営者の出自に占める「清教徒と呼ばれたもの」たる中産的生産者層の比率そのものが問題だった。そして、この比率が小さい以上、総体的に把握された近代英国史において、中産的生産者層にかかわる史実は重要ではない、と彼は判断する。

越智と大塚の対立は、他の歴史学者もまきこむ論争を惹起した。論争の争点はおもに〈イギリス史の牽引者は中産的生産者層かジェントルマンか〉という点に置かれたが、その背景には、このような二つのアプローチの対立があった。それでは、この二つのアプローチの関係を、ぼくらはどう理解すればよいだろうか。

【生きた歴史感覚に依拠する】

一九六〇年といえば、日米安全保障条約改定の是非を問う、いわゆる安保闘争が闘わされた、おそらくは戦後最大の激動の年だった。この年、歴史学界でも、一つの重要な論争が生じる。イギリス経済史学者・吉岡昭彦と、中世史学者・堀米庸三のあいだで展開された、いわゆる吉岡・堀米論争がそれである。

論争のきっかけとなったのは、前年の歴史学界を回顧した堀米の短文である(以下、引用はすべて堀米[一九六〇]一六六、一六九頁)。そこで彼は、経済史学をはじめとする「社会科学としての歴史」と歴史学を対置し、そのうえで後者を担う「歴史家の固有の領分とは何か」と問いかけた。

堀米によれば、歴史家の固有の領分は「歴史を構成する諸側面の総合的把握」つまり「歴史の諸側面を、ある特定の観点にもとづいて統一的に把握すること」だった。これは、「諸側面の総合的把握」という点では先述した越智の方法論に似ているし、「ある特定の観点にもとづいて」という点は先述した大塚の方法論と共有している。越智と大塚の立場を対置すると、堀米は両者の中間に位置するということができるだろう。ちなみに、採用されるべき「特定の観点」として、堀米は「ある一つの時代、ある一つの社会に生きた人々の究極の価値や関心が何であり、彼等がこの価値・関心の実現に向ってどのような動きを示したか、という問い」を挙げている。

つぎに、大塚の方法論に含まれる史実の一般化という手続きについては、堀米はどんな態度を採るのだろうか。彼が述べるように歴史を構成する諸側面を総合的に把握してみると、そこには一つの歴史像が生まれることだろう。堀米は、史実を一般化して歴史像を構築するという手続きは歴史学者の営みの一環をなすと考えていた。その点では、彼と大塚の距離は小さい。

ただし、大塚の場合、史実の一般化には、もう一つ、理論という要素が関与している。そして、堀米の批判は、まさにこの理論の介在に向けられた。彼にとって、理論とは「事実知識の不足と歴史感覚の欠如を補うもの」にすぎない。したがって、理論を介在させる「社会科学としての歴史は、理論の精妙さをほこりえても、結局は歴史の自殺である」。堀米が考える一般化という手続きに、理論が介在する余地はなかった。

それにしても、理論を用いず、しかし史実を一般化して歴史像を構築しなければならない場合、一体ぼくらはなにに依拠すればよいのだろうか。堀米は、歴史学者のしごとは「生きた事実を生きた歴史感覚をもってえがき出す」ことにあると主張する。歴史像を構築するにあたって頼るべきは、自分のセンスなのだ。

理論忌避ともいうべき堀米の所説に対しては、ただちにイギリス経済史学者・吉岡昭彦から批判が寄せられた。さらには、さまざまな経済史学者や歴史学者が双方を支持あるいは批判する見解を寄せるに至り、ここに吉岡・堀米論争が始まった。

吉岡は、大塚と同じく、歴史研究は理論と史実の相互媒介によって進展すると考える。そのうえで、彼は「〈生きた史実を生きた歴史感覚をもってえがき出す〉歴史学……ならばあえて歴史家でなくとも、文学者やジャーナリストの方がよりよい仕事ができるのではあるまいか」(吉岡[一九六〇]九頁)と述べ、理論なき歴史研究は学術的な営みとはなりえないと喝破した。

この論争自体は、決着がつかないままに、やがて終了した。それでは、堀米がいうように、自らのセンスにもとづいて歴史像を描きだすことは可能だろうか。望ましいのだろうか。また、吉岡が批判的に提起したように、センスにもとづく歴史像の構築は科学的な営みでありうるのだろうか。

【東は東、西は西である】

戦後復興、高度経済成長、そしてバブル経済と続く日本の経済成長は、日本には日本独自の道があり、それは馬鹿にしたものではない、という意識を広め、根付かせた。そこから、ヨーロッパを模範とする発想に対する批判が生まれる。そして、ヨーロッパ経済史の研究から出発し、そこで得た知見と日本の現状を比較するという大塚の方法論もまた、当然ながら批判の対象となることを免れなかった。

大塚が採用した比較の手続きに対する批判は、おおきく二つの方向からなされた。

まず、彼が提示するヨーロッパ、とくにイギリスのイメージに対する批判。イギリス史学者・川北稔によれば、イギリスの経済成長を牽引したのはジェントルマンと呼ばれる貴族たちだった。この点で、川北は越智の所説を支持する。地理上の発見(一五世紀)以降、イギリスは広大な植民地を擁する帝国になる。ジェントルマンは、この植民地との交易や、植民地における事業経営を通じて富を蓄え、工業化を実現する(川北[一九七二])。かくして、中産的生産者層が経済成長を牽引するという大塚の所説は、実態に即していないとして批判されることになった。

他方で、個人が自律してこなかったという、大塚が提示する日本のイメージもまた、間接的にではあるが批判の対象となった。インド史学者・小谷汪之によれば、大塚をはじめ個人の自律を説く論者は、〈個人が自律しているヨーロッパ、個人が自律していないアジア〉という二項対立を設定したうえで、日本を含めたアジアはヨーロッパを真似て個人を自律させなければならないと論じることが多い。そして、アジアでは個人が自律していないという論者の念頭には、一九世紀になってもインドでは土地の私的所有が実現されていなかったという理解があることが多い。土地が私的に所有できないのでは、個人の自律は難しい、というわけだ。しかし、インド史の専門家である小谷によれば、これは事実として正しくない(小谷[一九八二])。とすれば、それをもとにしたアジア像や、そこからヒントを得た日本像に対しても、疑問符を付けざるをえないだろう。

大塚が提示したイギリス像や、彼が依拠したインド像については、このように史実との適合性をめぐって異論が唱えられた。こんなイメージ同士を比較したとしても、これでは話にならないだろう。それにしても、なぜ大塚はこんなかたちで比較という手続きを進めたのだろうか。

この点では、比較文学者エドワード・サイードの所説が示唆に富む。彼によれば、西洋(オクシデント)が抱く東洋(オリエント)のイメージは、東洋の実態を反映したものというよりは、むしろ自分に都合の良いように「ヨーロッパ人の頭のなかでつくり出されたもの」(サイード[一九九三]上巻一七頁)というべきものだ。西洋は、東洋のイメージに対して、自分(西洋)と他者(東洋)を区別する境界線を明らかにし、自分のアイデンティティを確立するべく、いわば鏡として機能することを期待する。こんな東洋とのつきあい方を、サイードは「オリエンタリズム」と呼ぶ。

ここで、大塚の所説にオリエンタリズム論を適用してみよう。大塚にとって、あるべき日本とは、個人が自律した社会だった。そのモデルとなりうる他者を探すうちに、彼はヨーロッパにつきあたり、自分の目的に沿ったかたちで〈個人が自律しているヨーロッパ〉というイメージを創造した。これは、オリエンタリズムの裏返したる「オクシデンタリズム」である(オクシデンタリズムについては、近藤[一九九八]四〇頁を参照のこと)。

こうして出来上がったヨーロッパ像と対置されるのは、今度は、それと正反対の特徴を持ったアジア(そして日本)でなければならない。こうして、実態の如何にかかわらず、〈個人が自律していないアジア〉というイメージが創造されてゆく。これはまさに、サイードがいうオリエンタリズムそのものだ。こうして、オリエンタリズムとオクシデンタリズムが複雑にからみあうなかで、比較が進められ、アジアの一員たる日本はヨーロッパを真似なければならないという所説が十分な史実的な裏付けを欠くままに出来上がる。

川北や小谷によれば、東(東洋、オリエント、アジア、日本)は東、西(西洋、オクシデント、ヨーロッパ)であり、両者は簡単には比較できない。この立場に立つと、歴史学者が比較に手を染める必要はあるか、という疑問が湧いてくる。さらにいえば、大塚が比較を重視したのは、アクチュアルな問題を考える際にヒントを与えてくれそうだったからだが、アクチュアルな問題を考えるとしたら、他の方法があるのではないだろうか、という気もしてくる。

なお、川北や小谷の所説については、イギリスにおけるジェントルマンの役割や、インドにおける私的土地所有だけを一面的に強調しており、史実と完全に適合的なものではないという(反)批判が可能だし、また実際にもなされてきた。この点については更なる検討が必要だろうが、ここでは省略する。

【ふたたび遺された問題】

かくのごとく、大塚の歴史学方法論に対しては、越智、堀米、川北、あるいは小谷といった歴史学者から、様々な批判が寄せられてきた。それらは、直接には、歴史学方法論に含まれる個々の手続きの正当性や妥当性をめぐるものだった。

ただし、ここで現出する対立からぼくらがくみとるべきは、それらにとどまっているわけではない。そこでは、研究を進める際に問題関心は大切か、理論とはどうつきあえばよいか、比較することのメリットはなにかといった、まさに歴史学という営みの根幹にかかわる問題が問われていたのだから。

第三節 歴史学方法論再考

【「歴史はまさしく選択なのであります」】

きわめて乱暴にまとめると、ぼくらの眼前には二つの歴史学方法論がある。まず、問題関心から始め、理論を用いながら史実を一般化して歴史像や構築し、他の歴史像と比較する、という大塚久雄のものがある。その一方では、ある歴史を総体的に把握するべく、自らのセンスを信じながら歴史像を描きだすが、比較には手を出さない、というものがある。もちろん両者のあいだに、問題関心から始めるが、自らのセンスに依拠しながら歴史像を構築する、といった中間型があることはいうまでもない。

本来であれば、この二つの方法論を的確につきあわせ、異同を確定したうえで、あるべき方法論を提示するべきだろうが、それはぼくの能力をこえている。本節では、大塚の方法論を構成する三つの手続きについて、その各々が今日どう評価されているかを垣間見、そのうえでぼくの評価をちょっと述べておきたい(本節全体について、カー[一九六二]、小田中[二〇〇四]を参照のこと)。

はじめに、問題関心から始めるという手続きは好ましいか否かという問題から考えてみよう。この点を考えるうえで示唆的なのは、フランスにおける社会史学派が唱えてきた方法論だろう。この学派は両大戦間期のフランスで成立し、日本では一九八〇年代から人口に膾炙してきた。フェルナン・ブローデルやアラン・コルバンという、同学派を代表する歴史家の名前を聞いたことがある人も少なくはないだろう。ここでは、二人の創始者リュシアン・フェーヴルとマルク・ブロックのうち、前者の所説をとりあげる。

フェーヴルはルネサンスの歴史を専門とする中近世史学者だが、方法論についてもシャープな見解を提示している。そんなこともあってか、フランス社会史学派の歴史学者たちは、彼ら創始者から今日に至るまで、一貫して、さまざまに新しい方法論を提示している(二宮[一九九五]を参照のこと)。

フェーヴルは「事実は決して与えられているものではなく、通常、歴史家によって想像されるもの」であり、その意味で「歴史はまさしく選択なのであります」(フェーヴル[一九九五]一七頁)ときりだす。歴史研究とは、問題関心を出発点とし、それにもとづいて課題を設定し、仮説を立て、史実を解釈するという営みにほかならない。これは、過去をありのままに捉え、描写することこそ歴史学のしごとであると主張する、それまでの歴史学方法論を全面的に否定するものだった。

彼によれば、問題関心から始めるという手続きは、好ましいか否かという次元で論じられるべきものではない。歴史学者をはじめ、歴史を考察しようとするものは、好むと好まざるとにかかわらず、問題関心から始めざるをえないのであり、ほかに方法はない。

そして、ぼくらが現在を生きている以上「人間が過去を知りそして解釈するのは、現在を通じて」(フェーヴル[一九九五]三二頁)ということになる。それゆえにこそ、そこで構築される歴史像は同時代に働きかけるアクチュアリティを孕みうる、とフェーヴルは主張する。

たしかに、考えてみれば、だれであれ己を空しゅうすることは不可能だろう。そうだとすれば、いかなる歴史研究であっても、そこには必然的に初発から歴史学者の選択が介在する。そうだとすれば、ぼくらは大塚とおなじく「発生史的」アプローチを採らざるをえない。そして、もしも「歴史の総体的把握」アプローチが「発生史的」アプローチを否定するものであるならば、それは存在不可能であるといわざるをえない。

ただし、ここで考えておくべきは、二つのアプローチは両立不可能なのかという問題である。つまり、「発生史」的アプローチをくみこんだ「歴史の総体的把握」アプローチは考えられないのか、ということだ。考えてみると、「歴史の総体的把握」というアプローチを採ること自体が、その歴史学者の問題関心を反映している。そうだとすると、「発生史的」アプローチを否定する「歴史の総体的把握」アプローチなどというものは存在しないことになる。歴史研究はすべからく「発生史的」なものなのだ。

それでは、たとえば中産的生産者層とマニュファクチュア経営者の関係をめぐる大塚と越智の対立は、どう評価すればよいのだろうか。つまり、マニュファクチュア経営者に元中産的生産者層が「特徴的に」多いことを重視する大塚と、前者の出自に占める後者のウェイトが小さいことを重視する越智との関係は、どう考えればよいのだろうか。

いかなる歴史研究も歴史学者の問題関心を反映しているとすると、大塚と越智の対立を史実の正しさの次元で評価することはできない。それは、二つの相異なる、しかしともにアクチュアルな問題関心のあいだの対立とみなされなければならない。それゆえ、両者のあいだの優劣を〈どちらが正しいか〉という次元で考えることはできない。あえて優劣をつけるとすれば、それは〈どちらがアクチュアルか〉という点にかかわるものだろう。そして、この優劣は、時代が変われば変化してゆくにちがいない。

「歴史はまさしく選択なのであります」というフェーヴルの定義は否定しえないし、もしもそうだとすれば、アクチュアルな問題関心と切りはなされた歴史研究なんてものは想像できない――ぼくはそう思うのだが。

【史実と理論を往復運動させる】

歴史研究は、様々な領域でつくりあげられてきた理論と、どんな関係をとりむすべばよいか。これは、歴史学にとっては、いわば永遠の課題だったといってよい。あれやこれやの理論を援用して史実を一般化することは、吉岡がみなしたごとく当然の営みなのだろうか、それとも堀米が述べたように「歴史の自殺」なのだろうか。

ぼくは、歴史学が社会的な営みであるとすれば、なんらかのかたちで理論を援用しないような研究は存在しない、と考えている。たとえ、一つの史実をとりだし、それを淡々と描写するという、まさに「個性記述科学」に似つかわしい研究をするとしても、その成果をだれかに伝えるときには、自分のセンスに依拠するわけにはゆかないからだ。もちろん、自分の楽しみのためだけに歴史を研究するという、〈歌わぬ詩人〉のような営みを選択することも、不可能ではないだろう。その場合は、センスだけに頼ってもよいかもしれない。ただし、大抵は、自分が発見したことはだれかに伝えたくなるものだ。そして、他者に伝えるにはなんらかの一般化が必要であり、そこには理論が介在せざるをえない。したがって、ぼくらが考えるべきは、理論の援用の是非ではなく、理論とどうつきあえばよいかという問題でなければならない。

世紀転換期という今日の時点にたち、理論とのつきあい方という問題を考えるに際しては、合衆国の歴史社会学者シーダ・スコチポルの所説が興味深い。歴史社会学とは、本来、社会学のうち、歴史的なアプローチを採る下位領域のことを指すらしい。ただし、実際は、社会科学の諸理論を介在させた歴史分析をすべて包摂する便利な言葉として利用されることが多い(田中[二〇〇五]を参照のこと)。

スコチポルによれば、理論とのつきあい方は三つに大別できる(スコチポル[一九九五])。第一は、一つの理論を与件とし、それを複数の史実にあてはめるという「一般理論適用型」である。このアプローチには、理論を聖地化できるというメリットと、理論にあてはまらない史実を無視する傾向があるといデメリットがある。

第二は、一つの史実をちゃんと解釈することをめざし、複数の理論を用いるという「解釈学型」である。このアプローチには、史実の解釈を深化できるというメリットと、「一般理論適用型」アプローチと逆に、役に立たない理論を気楽に放棄する傾向があるというデメリットがある。

スコチポルは、両者ともに一長一短があると考え、第三のアプローチたる「分析型」を採用することを提唱する。これは、理論を一種の仮説と考えたうえで、理論と史実とつきあわせ、史実との適合度にもとづいて理論を修正し、修正された理論を用いて史実を再度解釈し、再度理論を修正し……といった往復運動を進めるという仮説検証型のものである。理論は、史実を解釈する際に役立つ仮説にすぎないが、しかし役立つがゆえに肯定的に評価されるべきものとみなされる。

興味深いことに、スコチポルの「分析型」アプローチは、経済史学が採るべきアプローチとして大塚が唱道するもの(本章第一節で先述)と、よく似ている。理論を絶対視するのも変だが、さりとて放棄するのも変だ。そうだとすれば、理論とのつきあい方としては、この辺が妥当な線だろう――ぼくはそう思うのだが。

【大切なのは比較のやり方である】

歴史学を離れて人文社会科学をひろく見渡してみると、比較という手続きをあまり重視しない学問領域として、経済学が目に入る。経済学の定義は難しいが、ものすごく単純化していうと、個人は自分の利益を最大にすることを目指して行動すると仮定し、彼(女)たち同士が市場で出会うとどんな取引がなされるかという問題を考える学問領域のことだ。

二〇世紀を通じて経済学での主流をなしてきた新古典派経済学は、どの個人もあらゆる情報を入手でき(完全情報)、自分の利益を最大化するために合理的に思考する(完全合理性)と仮定した場合、もっとも効率的な経済システムは取引に際して障害や強制がまったくない(完全競争)モデルであると考えてきた。それゆえ、基本的には、経済システムを完全競争に近づけること、つまり規制緩和や民営化が望ましいとみなしてきた。

この立場からすると、経済システム同士を比較することは、さほど意味がない。比較という手続きをとるとしても、それは、理想的なシステムである完全競争モデルと個々の経済システムとを比較し、前者の歪みの程度を確定することに限定される。ちなみに、比較の最終的な目的は、この歪みをとりさるための方策を講じることにあった。

ところが、世紀転換期になると、新古典派経済学の内部で、比較という手続きの意義を再評価しようという動きが生じる。このアプローチを「比較経済分析」とよぶが、その主導者である青木昌彦によると、現実に存在する経済モデルの歪みをとりされば完全競争モデルに至りうると考えるのは正しくない。おのおのの経済システムはそれなりの合理性を伴っている。したがって、実際には、そして理論的にも、複数の経済モデルが多元的に存在する。そうだとすれば、経済モデル同士を比較することは可能だし、意味がある。

それでは、この場合、比較という手続きはいかに用いられるべきだろうか。青木によれば、どのモデルが新しいかを探るために比較する「発展段階論」、どのモデルが正しいかを探るために比較する「普遍論」、あるいはそして個々のモデルの独自性を確定するために比較する「擬似鎖国論」は、どれも好ましくない。これらは個々の経済モデルを不変のものとみなしているが、実際には、モデルは変化してきたし、今後も変化してゆくにちがいないのだから(青木[一九九五]はしがき)。

それでは、変化するモデル同士については、どんな比較の手続きをとるべきだろうか。青木は、近年経済学のみならず生物学などの分野で進展著しい〈進化ゲーム理論〉と呼ばれる手法に着目する(進化ゲーム理論については、たとえばドーキンス[一九九一]第五章を参照のこと)。この手法の詳細は(ぼくもよくわかっていないので)省略するが、その特徴は、モデルの変化(進化)のしかたそのもの同士を比較することをめざす、という点にあるらしい。そうすれば、モデルを絶対視することなく比較できる、というわけだ。

青木の所説が興味深いのは、まずもって、比較を重視してこなかった学問領域においても、この手法に対する関心が高まりつつあることを示している点にある。ただし、それとともに、モデルの変化のしかたを比較するという、ここで提示された手法にも留意するべきだろう。

歴史学に即すべく、〈モデル〉を〈史実〉や〈歴史像〉に置きかえて考えてみよう。史実や歴史像同士を比較するだけだと、ともすれば〈こんなに違うんだから、比較なんかできない〉という結論が出てくる危険がある。それに対して個々の史実や歴史像が成立し、変容しつつある過程を比較してみると、史実や歴史像のおのおのが成立した理由を問いかけることが可能になる。そして、この手続きは、ぼくらの知識を豊かなものにしてくれるはずだ――ぼくはそう思うのだが。

【いかに歴史を学ぶか】

ここまで、大塚の歴史学方法論をふりかえり、それに対してなされてきた批判と比較し、さらに近年の動向に触れながらぼくの印象を述べてきた。ぼくの立場を要約すると、歴史研究は「発生史」的なものでしかありえず、理論は仮説として利用できるし、また、変化の過程を比較するという手続きは役に立ちそうだ、というものになる。

なお、大塚の歴史学方法論は、本節でとりあつかった三つの手続きだけで特徴づけられるわけではない。そのほかにも、たとえば、歴史を遡る遡行的方法を利用しているとか、国家を単位として比較するという一国主義史観にもとづいているとか、すべてをあれかこれかに二分する二分法的な発想を採っているとか、色々な特徴を見出すことも可能である。また、ましていわんや、歴史学方法論を、本節の議論がすべてカバーしているなどとは、とてもいえない。本来であれば、検討の範囲をさらに広げなければならないだろう。ここで三つの手続きを論ずるにとどめたのは、いうまでもなくぼくの能力不足のなせるわざである。

【引用文献】

著作集 大塚久雄『大塚久雄著作集』(全一三巻、岩波書店一九六九〜一九年)

青木昌彦[一九九五] 『経済システムの進化と多元性』(東洋経済新報社)
ヴェーバー・M[一九九八] 『社会政策と社会科学にかかわる認識の「客観性」』(折原浩他訳、岩波書店・岩波文庫、原著一九〇 四年)
小田中直樹[二〇〇四] 『歴史学ってなんだ?』(PHP研究所・PHP新書)
越智武臣[一九六六] 『近代英国の起源』(ミネルヴァ書房)
カー・E[一九六二] 『歴史とは何か』(清水幾太郎訳、岩波書店・岩波新書、原著一九六一年)
川北稔[一九七二] 「工業化前イギリスの社会と経済」(柴田三千雄他編『近代イギリス史の再検討』、御茶の水書房)
小谷汪之[一九八二] 『共同体と近代』(青木書店)
近藤和彦[一九九八] 『文明の表象』(山川出版社)
サイード・E[一九九三] 『オリエンタリズム』(平凡社・平凡社ライブラリー、原著一九七八年)
柴田三千雄・松浦高嶺編[一九七二] 『近代イギリス史の再検討』(御茶の水書房)
スコチポル・T[一九九五] 「歴史社会学における研究計画の新生と戦略の回帰」(同編『歴史社会学の構想と戦略』、小田中直樹 訳、木鐸社、原著一九八四年)
田中紀之[二〇〇五] 「歴史社会学の展開と展望」(『社会学史研究』二七号)
ドーキンス・R[一九九一] 『利己的な遺伝子』(日高敏隆他訳、紀伊国屋書店、原著一九七六年)
二宮宏之[一九九五] 『全体を見る眼と歴史家たち』(平凡社・平凡社ライブラリー、初版一九八六年)
フェーヴル・L[一九九五] 『歴史のための闘い』(長谷川輝夫訳、平凡社・平凡社ライブラリー、原著一九五三年)
堀米庸三[一九六〇] 「回顧と展望・西洋史・総説」(『史学雑誌』六九巻五号)
向井守[一九九七] 『マックス・ヴェーバーの科学論』(ミネルヴァ書房)
矢口孝次郎[一九五二] 『資本主義成立期の研究』(有斐閣)
吉岡昭彦[一九六〇] 「日本における西洋史研究について」(『歴史評論』一二一号)