第3クール 経済史の社会的有用性
第8回 経済史は現実の役に立つか
(1)はじめに
前回は「経済史は役に立つか」という問題について、第二次世界大戦後の日本の研究者たちがどんな立場を採り、どう考えてきたかを見ました。今日は、一般論として経済史は役に立つか、現在の時点で役に立つことができるか、という2つの問題を考え、そのうえで僕の立場をお話しします。
(2)一般論
経済史は過去の事象を研究の対象にするから、やはり歴史学の一部です。それでは経済史を含めた歴史学は僕らの役に立つのでしょうか。また、役に立つ(あるいは、立たない)理由は何でしょうか。前回は「近代化」という具体的な対象に即して、皆さんにこの問題を考えてもらいました。
さて、一般論としてこの問題を問いかけると、大抵は次のような回答が返ってきます。まず「役に立たない」と考える人は、昔と今は時代も状況もテクノロジーも違うとか、役に立とうと思って歴史を学ぶのは不見識だとか、そういった理由を持ち出します。ただし、面白いのは、「役に立たない」という立場の人は決して多くないことです。かなりの割合の人は「どこか役に立つところがある」と考えているようです。経済史を専門にしている僕としては嬉しい話ですが、ではそう考える理由は何でしょうか。よく引き合いに出されるのは次の2つです。
第1、教訓を探すこと。現在生じていることと似ていたり、ちょうど反対になったりするような事態は、歴史のなかに色々とみつけることができます。とすると、歴史を知ることは、現在を生きる僕らにとって、一種の教訓になります。たとえば、現在の日本は先進国としては異例に長い不況に陥っています。様々な対策が採られましたが、どれもあまりうまく行っていません。ところが、経済史を顧みると、同じような事態が日本でも外国でも何度か生じていることがわかります。そこから不況を打開するヒントを得られないでしょうか。
具体的な例としては、1929年に始まった世界恐慌があります。アメリカの株価暴落に始まった恐慌(激しい不況)は世界中を駆け巡りました。アメリカの失業率は25%、ドイツは30%をこえました。この事態に対応するため、公共事業政策(アメリカ)、ファシズムと再軍備(ドイツ)、政労使の協定(スウェーデン、フランス)などが試みられました。テミン『世界大恐慌の教訓』(東洋経済新報社)は世界恐慌が発生した理由やそれに対する対策を経済学的に分析し、この手の本にしては珍しく売れています。もちろんその背景には「教訓」を求める人々の欲求があるわけです。
また、世界恐慌は日本にも波及しました。日本の場合、当時の主要な輸出品の一つが生糸だったこともあって、もっとも大きな影響を受けたのは農村部でした。娘の身売りや夜逃げが農村部で頻発したのはそのせいです。この事態に対して、政府の経済政策は動揺しました。まず財政再建と構造改革をやったのですが、これが失敗。ついでインフレ導入政策に切り替えて、どうにか経済を安定させました。このときの経済政策シフトはエコノミストの関心を呼んでいますが、これもまた「教訓」を求めているわけです。
第2、僕らの文化と違う文化(ライフスタイル)を知ることによって、自分たちの文化の特殊性を理解し、自分たちのアイデンティティ(自分を自分にしているもの)を確認すること。自分と違う人々と会うと、自分のことがよくわかるものです。とくに、それまで「当たり前だ」と思っていたことが「当たり前じゃない」ことに気付きます。外国に行ったり、昔のことを知ったりするのは、その良いチャンスになります。
たとえば、少し前まで日本には「男性は仕事、女性は家事と育児」という習慣がありました。日本に住んでいれば、これは当たり前のように思えたかもしれません。でも、たとえばデンマークに行けば、共稼ぎは当たり前です。あるいは、外国に行かなくても、第二次世界大戦前の日本の農村部を見れば、仕事をしなくてよい女性は、ほんの一部でした。家事と育児に専念することは一種の「贅沢」だったのです。そうすると「男性は仕事、女性は家事と育児」は日本の文化の特殊性だ、とは言えなくなります。それらは僕らのアイデンティティではないのです。とすると「僕らのアイデンティティは何か」という問題を、もう一度考えなければならなくなるでしょう。
(3)現在
それでは、一般論ではなく、現在の日本で、経済史は役に立つのでしょうか。とりあえず、役に立っている例を2つ挙げたいと思います。
第1、近代人の形成という課題は未だに続いていること(109〜112ページ)。それはとくに教育の分野で明らかです。前にもお話ししたように、近代人の特徴は「自律性」にありますが、とくに2002年度から小中高で始まった「ゆとり教育」は、学校教育を通じて生徒の「自律性」を引き出してゆこうとする試みだと考えることができます。具体的には、生徒が自分で学習する「総合学習」の導入、カリキュラムの3割削減(余った時間は自律的に使う)、完全週休二日制、などです。そして「学校という強制力をともなった場で自律性を引き出せるのか」という、まさに半世紀も前に大塚が直面した問題に、全国各地の先生方が悩んでいるのが現状です。
あるいは、自律した人間になろうというメッセージは、今の内閣の政策の基本的な理念になり、また皆さんの多くが将来かかわりを持つだろう企業から発信されるようになりました。自律した人間であれば、公的な年金や保険や社会保障は不要だろう、様々な規制も不要だろう、企業と対等な関係に立つ社員になれるだろう、というわけです。僕はこういった発想には反対ですが、経済史が問題にしてきた「自律」というテーマは、教育その他色々な分野で依然として意味を持っています。
第2、総力戦体制論(114〜7ページ)。今の日本経済の特徴として、官庁の行政指導、護送船団方式、大量生産(ある企業のある製品が売れたら、他の企業も同じような製品をいっせいに売り出す)イコール創造性の欠如、ベンチャー企業に対する大企業の圧倒的な優位、といったことが指摘されています。それでは、こういった特徴が生まれたのはいつだったのでしょうか。また、その理由は何だったのでしょうか。そういったことがわかれば、今の日本経済を再建する方法のヒントが得られるかもしれません。そのような問題意識のもとに生まれたのが「総力戦体制」論です。それによると、これらの特徴は、1930年代、国内の資源を総動員する総力戦が来るという予想から生まれました。第二次世界大戦は総力戦であり、そして戦後も先進国に追いつくという「経済的な総力戦」が続きました。その結果、いまの日本経済があるわけです。それでは、総力戦をする必要がなくなったらどうなるでしょうか。そのばあい、日本経済は変わるか、変わるべきか、どう変わればよいか。皆さんにも、ぜひそういったことを考えてほしいと思います。
(3)おわりに
これまでの話から、僕の立場は大体わかると思います。僕は現在でも経済史は社会的有用性を持っていると思います。もちろん持つ必要はありません。むしろ「必然的に持ってしまう」といったほうが正確かもしれません。また、社会的有用性をもつ学問は誤って利用される危険があります。そのことにも注意しなければなりません。