東北大学西洋史研究会大会共通論題「〈歴史家のしごと〉の現在」

2003.11.23(at青山学院大学) 
小田中直樹(東北大学・経済)

[1]『歴史学のアポリア』再訪

拙著『歴史学のアポリア』(小田中[a])でぼくが論じたかったのは、歴史学は真実に到達できるか、歴史学には社会的有用性があるか、この二つの問題でした。そこで到達した結論を再論する必要はないと思いますが、前者については、ぼくは、コミュニケーショナルな手段を用いれば、相対的で暫定的に妥当な認識・解釈・歴史像に到達することは可能であると思っています。後者については、一例として、比較経済史学派の歴史家たちがとりくんできた「近代人」の形成というアポリアは、いまなお未解決であり、かつアクチュアルな課題である、と判断しています。というわけで、拙著の結論は「歴史学は真実に到達できない」とはいえないし、また「歴史学に社会的な有用性はない」と評価することもできない、というものになりました。

幸いなことに、拙著に対してはいくつかの書評が発表されました。また(本日の桜井万里子、有光秀行、工藤光一、高田実、諸氏の報告を含めて)いくつかの場で直接意見を頂くことができました。それらは、次の二つに分けられるように思います。

第一に、比較経済史学派が提示し、ぼくが支持した近代人の評価をめぐるものです。

長谷川貴彦さんは、自律性を特徴とする近代人を称揚するだけでは、1980年代に日米英で広がった新自由主義と対峙できないはすだと主張しています。つまり「新自由主義ないしは新保守主義との緊張関係を欠いている」ため「〈私たちの時代〉の具体的なイメージが……明確な像を結ぶことはなかった」(長谷川)とされます。

工藤光一さんは、近代人はたとえ他者とのコミュニケーションを志向するにしても、それは自律を目的とするものにすぎないと指摘します。とすると、たとえ「近代人」の形成について論じたとしても、現代の歴史学に課せられ、また優れた歴史家たちがとりくんでいる「〈共訳不可能な位相〉を共約可能なものに回収せずに理解しうるための歴史的想像力」(工藤報告)を提示するという表象するという課題は達成されえない、ということになります。

さらに高田実さんは、人間の形成が必要であり、この課題に資せる点で歴史学は社会的な有用性を持っているというのはよいとして、「大塚、吉岡、68年世代、それぞれがその当時問題にした〈人間〉の持つ規範性の問題、そこに内報される差異と同質性をどう捉えるのか」(高田報告)という問題を提示します。つまり、今日どのような人間を形成すればよいのか、ということです。

第二に、もっと大きな問題として、丹下栄さんは「しかしもう少し先があるのではないかという気持ちは抑えがたい」と指摘します(丹下)。つまり、「歴史学は真実に到達できない」とはいえないし、また「歴史学に社会的な有用性はない」と評価することもできない、という拙著の結論は「ないことはない」という二重否定であり、留まるところ消極的なものにすぎない、積極的な主張はないのか、ということです。

拙著に対する批評が歴史家からなされたこともあり、真実に対するアクセスという論点よりは、むしろ社会的有用性という論点をめぐる拙著の所説が、おもに批判されることになったことがわかります。

端的に言えば、これらの批判はどれも妥当なものです。ただし「妥当なものです」といってしまうとそれ以上話が進まないので、さらに桜井万里子さんや有光秀行さんの指摘を受けつつ歴史学の枠組みを考え、そのなかでこれら批判に答えてゆこうと思います。

[2]「近代人」の功罪

近代人の形成を強調する、いわゆる「近代主義」は、かつては現状批判的な性格を色濃く持っていました。ところが、自律的な近代人を重視するという点を共有しているせいか、今日の支配的な思想潮流である新自由主義に対しては、有効な批判が出来ていないように思います。また拙著が近代人の形成という枠組みで論じたことは、これまで「主体性」の問題として論じられてきたものと大差ありません。そして、個人を単位とする主体性の形成という考え方については、「間主体性」や「他者性」を重視する立場から批判がなされてきました。というわけで、個人主義的で自律的な近代人を肯定的に評価するというスタンスには様々な問題がある、といわなければならないでしょう。

ただしぼくは、様々な批判を考慮したうえで、依然として近代人の形成を重視したいと思います。「近代人」という言葉に問題があるのであれば「個人主義的で自律的な人間」と呼びかえてもかまいません。それは、人間は利己主義的な存在である、人文社会科学のアプローチとしては個人主義が適当である、という二つの方法論的な仮定を採用しているからです。つまり「新自由主義ないしは新保守主義との緊張関係」を保つ際にも、あるいは「〈共訳不可能な位相〉を共約可能なものに回収せずに理解」する際にも、まずは「個人主義的で自律的な人間」という仮定から出発することが適当なのではないか、ということです。それは、この仮定がもっとも「確からしい」と判断しているからです。

もちろんぼくらは社会のなかで生活しています。ですから、人文社会科学の最終的な目的は広い意味での「コミュニケーション」の次元に置かれるはずです。ただし、この次元にアクセスする際のアプローチとしては、集団主義的アプローチと個人主義的アプローチがあります(有光報告)。そして、ぼくは後者のほうが有意義だと判断しています。

[3]歴史学の枠組み

真実に到達できるか、社会的有用性はあるか、という二つの問題に対する態度をあわせたものを「歴史学の枠組み」と呼ぶとすると、今日もっとも人口に膾炙している歴史学の枠組みは「物語と記憶」だと思います。それによると、歴史学は真実に到達できないのであり、したがって歴史学の産物は「物語」にほかなりません。ただし、だからといって歴史学に社会的な有用性がないというわけではありません。歴史学が供給する「物語」は、社会集団にとっての「記憶」として機能できます。

歴史学の枠組みとしての「物語と記憶」に対して、僕は二つの不満を持っています。まず、全てを記憶をめぐる政治的な闘争に還元してしまい、しかし闘争における立場決定を正当化する根拠を供給できていないことです。もう一つは、集団主義的アプローチを採用していることです。これに対して、ぼくは、立場決定の根拠(いわば「いかり」)として「史実」を利用できるという点に、歴史学の強みを見ています。また、個人主義的アプローチを採ったほうが生産的だと考えています。

というわけで、「物語と歴史」のオルタナティヴとして、史実にもとづき、個人主義的アプローチを採用する枠組みを考える必要があります。それが丹下さんの批判に答えることにもなります。ぼくは、一つの例として「通常科学とコモン・センス」(小田中[b])を提示できると思っています。「通常科学」とは、いうまでもなくトマス・クーンがパラダイム論の一環として提唱した概念であり、「ある時点で科学者コミュニティが妥当だと判断している理論」と要約できます。ただし、ここでいう「科学者」を職業的・専門的な科学者だけ限定する必要はありません。また「コモン・センス」は「個人の日常生活に役立つ実践的な知識」を意味するものとします。歴史学の枠組みとしての「通常科学とコモン・センス」は、相対的で暫定的に妥当な史実(認識・解釈・歴史像)を踏まえている、個人主義的アプローチにもとづいて利己主義的な人間にとって有益であると自称できる、という点で、ぼくにとってはより好ましいものになります。

[4]歴史学と歴史教育

では、この枠組みを身に付ける手段は何か、といえば、それは何よりもまず「教育」です。さらにいえば、近代人を含めた人間を形成する手段としてもっとも重要なのも教育です。というわけで、ぼくの立論は教育を重視しています(桜井報告、工藤報告)。つまり「通常科学とコモン・センス」という枠組みを採用するのであれば、歴史学者は教育、とりわけ歴史教育をもっと重視しなければならないはずです。

そんな観点から見ると、今日の歴史教育、さらには歴史教育と歴史学の関係は、とても満足のゆくものではありません。そもそもの問題は、歴史教育の大部分が初中等教育教員(実践)と社会科教育学者(研究)に委ねられ、歴史学者と一種の分業関係にあることにあります。研究と教育の分離は、各々の効率を上げるため、学問論としては、また一般論としては問題ないかもしれません(もちろん「研究と教育は一体であるべきだ」という立場もありえます)。ただし、歴史学は社会に対してどう貢献するべきかを考え、そのための枠組みとして「通常科学とコモン・センス」を採用するのであれば、ぼくらにとってもっとも身近な教育である歴史教育のあり方を再検討する必要があるはずです。もちろん、ここでいう「歴史教育」は学校教育に限られるものではありません。

こういうと「歴史学者も、大学における教育、教科書の執筆や学習指導要領の作成協力、さらには書籍の執筆や各種の講演など、様々な場で教育に参画している」という反論が来るかもしれません。でも、いわゆる「従軍慰安婦論争」を見ればわかるように、歴史学者の広い意味での教育活動(啓蒙)が十分なものだとは思えません。「役に立たない」学問領域に対する風当たりが強まっている今日、歴史学にとって、この問題にどう取りくむかは緊要の課題だと思います。

[参照文献]
小田中直樹[a]:『歴史学のアポリア』(山川出版社、2002)
小田中直樹[b]:『歴史のききめ・歴史学のすすめ(仮題)』(PHP研究所・PHP新書、2004刊行予定)
丹下栄:「書評『歴史学のアポリア』」(『歴史学研究』779、2003)
長谷川貴彦:「書評『歴史学のアポリア』」(『社会経済史学』69-2、2003)